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高鍋高校 平原美夫 その2

田舎を思い出しちゃ、書いちょっとじゃが、ぼーど忘れちょっと。

(故郷を思い出しては、書いているけれど、大半を忘れてしまった。)

始めに、日向弁で書こうと思いつつも、宮崎を離れて、30余年ぼーど(ほとんど)忘れてしまった。なんとか続けたい。始めたからにはほたっちょけんから。

スポーツ山脈(編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校 昭和5年に誕生し苦闘

野球部 1

 旧制高鍋中野球部は既に1930年(昭5)前後に誕生していた。当時宮崎県の中等野球は3ブロックに分かれて試合をしていた。

 県北部は延岡中と高鍋中、中央は宮崎中、県南部には都城中などがいた。高鍋はそれなりに活躍したようだが、詳しい成績は残っていない。

 その高鍋が県中等学校野球の表舞台に登場するのは終戦直後の46年だった。この年それまで中断していた全国中等学校野球大会が復活したのである。

 といえば威勢がいいが、選手たちのいでたちは、今のギャルが見たら「ウッソー!」と噴出しそうな代物だった。

 飽食の時代とは違って、すべてないものづくしの時代だった。上からいくとまず帽子。今のようなかっこいいものではなく、それまで帝国陸軍の兵隊さんがかぶっていた戦闘帽だった。

 そして、ストッキング。これまた兵隊さんが愛用していた軍隊用の巻き脚半だった。履いていた靴がこれまた傑作だった。雨用に履く長靴か土木作業用の地下足袋だったのである。

 まさに「清貧」の高鍋ナイン。戦争が終わったばかりなので当然と言えば当然だが、彼らを取り巻く環境もひどかった。

 例えばバックネット。バックネットは板切れのつぎはぎ。高さ2メートル、幅5メートルのお粗末なもので、打球がそれを突き抜けたり飛び越えたりするため、割れた校舎の屋根がわらは年間200枚にも達した。

 食事事情も悲惨に近かった。合宿では猛練習で選手たちに同情した全校生徒たちから友情の米、麦が寄せられたが、食い盛りの選手たちが満足できるわけはない。ジャイモを半分入れた混ぜご飯の中からは選手は必死で米粒を探したという。

 46年、待望の県北部大会に出場した高鍋ナインは延岡中、延岡商とのリーグ戦に連勝し県大会に進んだ。エース荷出(昭24卒)、捕手中崎(昭25卒)のバッテリーだった。荷出は卒業後宮崎鉄道(旧国鉄)でも投手で脚光を浴び、退職後、母校のコーチを務めたこともある。中崎は歯科医院を開業する傍ら、母校野球部後援会会長として後輩の面倒を見ている。(敬称略)

 平原先生は次回から登場します。   先生は、美術部の先生なんですが、部室で見かけることはほとんどなくて、校庭で真っ黒に日焼けされていた。書きたいのも、野球部の監督としての実績である。美術部も長い伝統と実績は素晴らしいが、宮崎県民の意識を高めてくださった、野球部監督として書き進めます。

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