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宮崎代表は延岡学園(5回目)

夕べ、暑してかい、ねちょらんと、もう、ねみーしてたまらんとじゃが。
(昨夜、暑かったので眠れなかった。今、眠くって仕方がない。)

 夏の甲子園の宮崎県代表が決まった。5回目の延岡学園です。決勝戦が行われたアイビースタジアムは、2003年秋から、ダイエーホークスがキャンプを始めたそうです。ダイエーというのが懐かしいが・・。

高鍋高校 平原美夫 その5

スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校   54年夏に悲願の初甲子園

野球部 4

 ハプニングは1950年(昭25)に1月に起こった。それは、高鍋ナイン、野球部OB、約2万の卒業生、そして宮崎県民にとっては文字通り晴天のへきれきだった。100%の確率でセンバツ大会出場は確実と思われていた高鍋が推薦されなかったのである。

 前年秋の九州大会決勝戦で熊本工に敗れはしたが、過去の経緯からいけば準優勝の実績なら、ほぼセンバツ出場は確実と思われていた。しかし、センバツ校決定の日、高鍋野球部史上初、そして宮崎県勢初の甲子園出場の朗報を首を長くして待っていた関係者に届いた知らせは「凶報」に近かった。

 100%OKとみられていたセンバツ出場から外れたのである。東九州地区(大分、宮崎、鹿児島)のレベルが低すぎるというのがその理由だった。高鍋のキャパスには当然ながら絶望のため息がもれ、宮崎県民の間からも悲鳴が聞こえてくるようだった。それもそうだろう、当時の宮崎県高校球界は全国でただ一つの「甲子園不出場県」として知られ、県民も関係者も肩身の狭い思いをしてきたからだ。

 この千戴一遇のチャンスを逃した高鍋は再び甲子園への道を走り続けた。そして、54年の夏、高鍋は悲願の甲子園出場権を手中にする。

 それは8月5日だった。舞台は宮崎市の県営球場での全国高校野球選手権九州大会決勝戦、相手は名門の大分商。全国46都道府県(沖縄が本土復帰前)で最後の甲子園出場であった。100万人の宮崎県民が、ここの快挙に歓喜したことはいうまでもないことだ。

 スコアは4対0。優勝候補の最右翼に挙げられていた大分商打線を、エースの杉尾(昭30卒)が得意のカーブで3安打に抑え込み、打線も二塁打2本を含む9安打を放つという圧勝だった。

 初めての甲子園が目前、ということでベンチの中でグラウンドで選手たちが緊張したのはいうまでもない。この緊張をほぐしたのはある選手の一言だった。彼は試合中に我慢できずにトイレに直行した。帰ってきていわく「ほっとした」。ベンチには笑いが渦巻き、のちに監督の平原美夫(故人)はこう語っている。「あれで皆の気持ちがほぐれた」。(敬称略)

 ☆一県に一校出場になったのはいつからなんだろうか。この時はまだ、3県で一代表ということか。この頃、甲子園は今とは比べ物にならないほど遠かったのである。

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コメント

1954年夏高鍋初出場を決めた前夜に宮崎市内で起きた事件が報じられていない。
決勝戦前夜、大分商業ナインの宿舎にて、深夜に宮崎市民が寄ってたかって投石し、ガラスが割れ石が当たるなどでけがをした選手、睡眠の取れない選手が大半でとても試合などできる状態ではなかった。

そんなことをしてまで奪い取った高鍋の初出場など宮崎の恥さらし以外の何物でもない。

1954年にそんなことが有ったのを少しも知りませんでした。
そのころに私は産声を上げています。
高鍋のOBがからんでいたことなのでしょうか?
真実を知りたいですね。しばし 猶予をください。

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