トップページ | 2006年8月 »

やっと梅雨があけた、甲子園の夏です!

いつの間にか平原先生のことでなく、平原先生の作り上げた野球部のことだけなのに気がつく。外に資料がないので、お許しいただいてこのまま平原先生の育て上げられた野球部を書いていきたい。

スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校 黄金期に輝くエース 清

野球部 9 平原美夫

 高鍋の3度目の甲子園出場は1961年(昭36)夏にやってきた。前回の出場からわずか2年後だった。

 59年夏には優勝候補の名門中京商を4-0でシャットアウトして全国にその名を知られ、すっかり自信をつけた高鍋の黄金時代であった。どんな高校体育部にも盛衰の歴史があるが、高鍋野球部のこの時期はその盛衰の「盛」の時代であった。

 また代表校が1県1校になる前で、宮崎勢が甲子園に出場するためには、鹿児島、大分、沖縄代表が参加した南九州大会を制覇しなければならなかった。既に強豪の仲間入りをしていた高鍋は61年夏も優勝候補の一角に挙げられ、その評判通り順調に勝ち進んでいた。

 そして、決勝戦で3度目の甲子園行きを決める相手となったのは沖縄の名門首里。試合は激しい打ち合いとなった。結局、大接戦の末、高鍋が首里をうっちゃって甲子園出場の切符を手中にした。3度目の甲子園だったのでキャンパスにも初出場のような新鮮な感動はなかったが、その代わり「甲子園行きは当たり前」といった自信があふれていた。

 しかし、何度出場しても甲子園で勝つことは難しい。自信を持って出場したはずの3度目の甲子園では、一回戦で敗退した。だが昔のように完敗しないところに高鍋の進歩があった。強豪秋田商を相手に0-1の惜敗であった。

 打線が軟投派の相手投手に抑え込まれたのが敗因だったが、高鍋では秋田商を1点に封じた1年生のエース清俊彦(昭39卒)の好投が注目を集めた。

 清は西鉄ライオンズでエースとして活躍、その後、近鉄にトレードされたが、高鍋時代には鋭いドロップで相手打線を翻弄(ほんろう)した。1年生エースの清はこの年こそ1回戦で敗退したものの、そのピッチングはさらに威力を増していく。

 そしてHirahara翌年春、その清を先頭に高鍋は野球部史上初、しかも宮崎県勢としても初めてのセンバツ出場を果たすのである。この時のレギュラーには当時の監督で高鍋野球部の「開祖」といわれる平原美夫(故人)の長男美樹(昭39卒、早大)がいた。美樹は後に父の遺志をついで母校の監督を務める。(敬称略) 

 写真は高鍋町営球場に立つ、平原先生の胸像。実際の先生も威厳があったが、胸像さえも・・・。

  やっと、平原先生の名前が・・。今では、先生の息子さんの美樹氏ではなく、先生の お孫さんの時代 になったようです。

あの、中京商業を完封

まこち、ぱやんぱやんしちょっかいよ!おとしてかい、ちんがらじゃが

(本当に!(失敗したのは)うわのそらでやっているからよ。落としてしまって壊れてしまった)

 朝日カルチャーで「京都学入門-京都検定に向けて」という講座を受けた。京都在住の佛大非常勤講師の講座である。京都検定を受けたいわけではありません。京都を知りたいのです。現地に生活しているお人の話を聞けるんです。いい講座です。熱く語っていただきました。秀吉の作った京都の話。

高鍋高校 平原美夫 その8

スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校 V候補中京商を完封

野球部 8

 高鍋高が2度目の甲子園出場を決めた1959年(昭34)夏の東九州大会決勝戦は、大変な熱気の中で開始された。決勝戦の舞台となった鹿児島の鴨池球場のスタンドは超満員、両校の応援団や一般の観客で埋まった。上空には宮崎のデパートがチャーターしたヘリコプターが「高鍋頑張れ」の垂れ幕を下げて旋回していた。

 1000人の高鍋応援団の先頭に立っていたのは団長の金橋(昭35卒)金橋のリードで一糸乱れぬ応援ぶりが評判となった。

 名門鹿児島商と新興勢力の旗手として注目されていた高鍋との一戦は予想通り大接戦となった。追いつ追われつの接戦は結局、3対2で高鍋にがい歌が上がった。

 「さあ、甲子園」。高鍋高キャンパスには、初出場の時とは違った興奮が漂った。当時のメンバーは次の通り。

 【中】甲斐(昭35卒)【遊】津江(昭36卒)【捕】工藤(同)【投】永友(昭35卒)【左】古屋(同)【三】岩岡(同)【右】黒木(昭36卒)【二】守園(昭37卒)【一】日高(昭36卒)。

意気揚々ト甲子園に出掛けた高鍋ナインの相手が決まった。その相手は何と優勝候補の最右翼中京商

 中京商と聞いただけで、高鍋のファンはもちろん選手たちも半ばあきらめの心境だった。「もう高鍋の夏は終わった」とスタンドにため息が起ころうとした時、目前のグラウンドでは意外な試合展開が始まっていた。

 永友が絶妙なピッチングで中京商打線を完璧に抑え込んだのである。結果は4対0.予想もしなかった高鍋の勝利だった。

 2回戦の相手もこれまた強豪の天理。この試合も永友が好投して猛打の天理打線を寄せ付けなかったが、勝負の女神は最後まで、高鍋にほほ笑まず、延長15回、0対1で惜敗した。

 エースの永友はこの大会でのピッチングが再評価されて、アメリカ遠征チームに選ばれ、ハワイなどの8試合に登板している。(敬称略)

アスパラクラブ(朝日新聞)に登録

朝日新聞をなげーこつよんじょるかい、アスパラクラブに登録したばい。

(朝日新聞を長い間購読しているのでアスパラクラブに登録した。)

 登録する時に、知りたい県を選びます。天気予報が知りたい場所も選びます。そうすると、ログインしたサイトのトップに、マイタウンとして、天気予報も常時表示されます。おもしろい。住所を登録した場所の情報もリアルに表示されます。中々便利に使いたいですね。

 高校野球の甲子園出場校も少しづつ決まってきました。高鍋高校は最近はサッパリです。代わりにというか、高鍋農業高校が強くなっています。農高も硬式野球になりました。

 高鍋高校 平原美夫 その7

スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校 食中毒禍乗り越え甲子園

野球部 7

 1957年(昭32)、2度の目の甲子園出場を狙った東九州大会(鹿児島、大分、宮崎勢が参加)決勝戦で宮崎大宮に4-5で惜敗し涙をのんだ高鍋ナイン。

 その中には大会随一の強打者と騒がれ、明大のセレクションでいきなり場外ホーマーを放ち、当時の島岡監督を仰天させた小森幹夫(明大、日本生命、会社経営)がいた。明大に入学した小森は主砲として活躍、リーグ優勝に大きく貢献しする。

 ナインの中には異色選手もいた。日高がその人。日高は野球部創立以来の秀才と言われ、京都大学卒業後、文部省に入り、現在、放送大学総務部部長。この二人を見ていると、「文武両道」を標ぼうとしてきた高鍋の伝統を感じる。

 その高鍋野球部が2度目の甲子園出場を果たすのは2年後の59年夏だった。この年から東九州大会は南九州大会と名を改める。大分、熊本、宮崎、鹿児島に、沖縄が加わってのスタートだった。

 舞台は鹿児島の鴨池球場。高鍋の 初戦の相手は沖縄の中部農林だったが、その大切な試合を前にして高鍋の宿舎「鴨池旅館」では大変なことが起きていた。選手たちの間で食中毒が発生していたのである。

 試合の前日に宿舎を訪れたところ、主将の甲斐(昭35卒)らがトイレに何度も飛び込むのを見て事態を知った新聞部の記者岩切(昭35卒)カメラマン猿股(同)は平原美夫監督(故人)にこう口止めされたという。「このことは絶対に漏らすな」。

 その厳しい「報道管制」が功を奏して、新聞テレビなどマスコミには一切知られずに試合はスタートした。しかし、エースの永友延(昭35卒)は試合が始まってもベンチに座るのがやっと、仕方なく投手に控えの2年生を起用。クリーンアップも若手中心に切り替えた。ところがいざフタを開けてみるとその若手が大活躍、10-1で大勝した。

 食中毒騒動をどうにか乗り越えて勝ち進んだ高鍋は、予想通り決勝へ。2度目の甲子園をかけた高鍋の相手は、名門の鹿児島商。スタンドは超満員、上空を宮崎のデパートが高鍋応援のためにチャーターしたヘリコプターが旋回していた。(敬称略)

ソフトバンクもドラゴンズも強~いね

今かい、洛中にいこか思ちょっと、青春切符がこうてあっと。

(今から、洛中に行こうとおもいます。青春切符が買ってあるので。)

高鍋高校 平原美夫 その6

スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校 57年同県対決に敗れ甲子園逃す

 野球部 6

 きっかけさえつかむと華麗な変身を見せるのが高校体育部。1954年(昭29)、宮崎勢では初めて、もちろん同校としても初めて甲子に園に出場した高鍋も、これを機会に県内屈指の強豪へと華麗な変身を遂げていく。

 夢にまで見た甲子園の土だったが、緊張のあまり高鍋ナインの動きは鈍く、同じ初出場の鶴見工(神奈川)に5-16と大敗を喫した。しかし、全国46都道府県の中で最後に甲子園出場を果たした高鍋に送られた拍手は今も誇り草になっている。

 「学生野球の父」といわれた飛田穂洲も朝日新聞(54年8月23日)で次のように書いている。

 「昨年八日市高校を出した滋賀県に一歩遅れて南の国宮崎県から高鍋高校チームを送り出し甲子園への門戸を開いた事は本大会に大きな喜びをもたらしたと言えよう。これで代表を出さない県は皆無ということになった。大正4年から数えて40年、『勝景』はとにかくとして『ひえつき節』が世に知られる日が来ても宮崎の野球は一向に芽を出さなかった。(省略)

 その高鍋に2度目の甲子園出場のチャンスがやってくるのが57年夏。高鍋野球部の「開祖」といわれる平原美夫(故人)が、私生活まで犠牲にして育て上げたチームが育ち始めた時期でもあった。

 この年の甲子園出場を決める東九州大会(大分、鹿児島、宮崎勢参加)は地元の宮崎県営球場で行われた。

続きはあとで。

どうも、失礼しました。洛中まで出かけておりました。「基礎から学ぶ 日本歴史」という講座です。聖徳太子は実在しなかったという話を聞きに行ってまいりました。厩戸皇子は実在したが聖徳太子は日本書紀がかかれるときに・・・。ただ、ことが大きすぎて教科書に反映されるのはずっと先になるだろうということでした。

続きです。

優勝候補の最有力に挙げられ、2回目の甲子園出場は間違いなしと言われた年で、高鍋は投打に絶好調だった。

 前評判通り勝ち進んだ高鍋は準決勝で強豪の鹿児島商を1-0で退け、同じ宮崎勢の宮崎大宮との決勝戦に臨んだ。当時のメンバーは次の通り。【中】日高(昭33卒)【二】臼井(同)【遊】立野(昭34卒)【左】小森(昭33卒)【右】北村【三】山田(同)【捕】綾部(同)【一】佐藤(同)【投】桑畑(昭34卒)。

 優勝間違いなしといわれたこのチームはしかし、宮崎大宮に4-5の接戦で敗れる。ナインは改めて甲子園出場の難しさを知った。(敬称略)

画伯監督の絵が宮崎県美術館に

いっぺこっぺさがしたっちゃが、ねしてかい、すったりなえたっちゃが。            

(あちらもこちらも探したけれど、なかったので、すっかり困ってしまった。)

 何故今頃になって、平原先生なのって、思われる人があるでしょうね。それは、日向市に住んでいる友人から、「宮崎の県美術館に古代エジプト展を見に行って来ました。併設されている展示場があって 平原先生の100号くらいの風景画が県内の画家の絵と共に展示してありました。先生のそういう絵は初めてみました。」というメールをもらったからです。先生の絵は、作品数が多くないのと、教え子たちで、大成している方が多いので、買い手が少なくないのです。私自身は写真以外では見たことがありません。画家としてより、野球に人生を託された時間の方が長いのですから。

スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校 甲子園初戦は11点差大敗

野球部 5

 1954年(昭29)、高鍋が東九州大会決勝戦で優勝候補の大分商を破り、甲子園初出場を果たしたことは前回紹介した。そして、この初出場はただ一つ「甲子園未出場県」としてある度に、他県から冷やかされていた宮崎県にとっても価値ある快挙であった。甲子園出場を目前にした決勝戦で極度に緊張した高鍋ナインをリラックスさせた選手がいたことも前回書いたが、プロ野球の大洋で活躍した黒木基康(昭30卒)が、その人だった。

 高鍋の4番でその名を知られた黒木は、日大に進んでも4番を打った。当時の日大は全盛期。黒木は日大の東都大学リーグ優勝に大きく貢献した後、大洋に入団、三原監督のもとで大活躍する。王貞治も顔負けの鮮やかな一本足打法だった。現在、黒木は大阪で会社を経営している。

 甲子園初出場の時のメンバーは次の通り。【遊】堀北(昭31卒、故人)【三】斎藤(同)【中】真鍋(昭30卒、元高鍋高コーチ)【一】黒木【捕】工藤(昭31卒)【左】宮越(昭30)【右】柄本(昭31卒)【二】立光(昭32卒、元高鍋高監督)【投】杉尾(昭30卒)

 高鍋の初出場ははもちろん、宮崎県勢として初めての甲子園出場だったので、地元の高鍋町を中心に県内は湧きに湧いた。それまでの宮崎県高校球界のレベルの低さは有名で、ラジオのクイズ番組で「まだ甲子園に出場していない県が一つだけある。さて、その県の名は」といった問題が出たほどだったから、その喜びようは尋常ではなかった。こうした周囲の異常とともいえる興奮ぶりに浮き足立ったのか、甲子園に乗り込んだ高鍋ナインも冷静さを失っていた。甲子園初出場の相手は同じ初出場の鶴見工(神奈川)だった。

 高鍋は初回2点、3回1点と幸先よいスタートを切ったが、終わってみれば5-16の大敗だった。「大観衆に皆が飲み込まれていた」と、真鍋は当時を振り返っている。(敬称略)

宮崎代表は延岡学園(5回目)

夕べ、暑してかい、ねちょらんと、もう、ねみーしてたまらんとじゃが。
(昨夜、暑かったので眠れなかった。今、眠くって仕方がない。)

 夏の甲子園の宮崎県代表が決まった。5回目の延岡学園です。決勝戦が行われたアイビースタジアムは、2003年秋から、ダイエーホークスがキャンプを始めたそうです。ダイエーというのが懐かしいが・・。

高鍋高校 平原美夫 その5

スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校   54年夏に悲願の初甲子園

野球部 4

 ハプニングは1950年(昭25)に1月に起こった。それは、高鍋ナイン、野球部OB、約2万の卒業生、そして宮崎県民にとっては文字通り晴天のへきれきだった。100%の確率でセンバツ大会出場は確実と思われていた高鍋が推薦されなかったのである。

 前年秋の九州大会決勝戦で熊本工に敗れはしたが、過去の経緯からいけば準優勝の実績なら、ほぼセンバツ出場は確実と思われていた。しかし、センバツ校決定の日、高鍋野球部史上初、そして宮崎県勢初の甲子園出場の朗報を首を長くして待っていた関係者に届いた知らせは「凶報」に近かった。

 100%OKとみられていたセンバツ出場から外れたのである。東九州地区(大分、宮崎、鹿児島)のレベルが低すぎるというのがその理由だった。高鍋のキャパスには当然ながら絶望のため息がもれ、宮崎県民の間からも悲鳴が聞こえてくるようだった。それもそうだろう、当時の宮崎県高校球界は全国でただ一つの「甲子園不出場県」として知られ、県民も関係者も肩身の狭い思いをしてきたからだ。

 この千戴一遇のチャンスを逃した高鍋は再び甲子園への道を走り続けた。そして、54年の夏、高鍋は悲願の甲子園出場権を手中にする。

 それは8月5日だった。舞台は宮崎市の県営球場での全国高校野球選手権九州大会決勝戦、相手は名門の大分商。全国46都道府県(沖縄が本土復帰前)で最後の甲子園出場であった。100万人の宮崎県民が、ここの快挙に歓喜したことはいうまでもないことだ。

 スコアは4対0。優勝候補の最右翼に挙げられていた大分商打線を、エースの杉尾(昭30卒)が得意のカーブで3安打に抑え込み、打線も二塁打2本を含む9安打を放つという圧勝だった。

 初めての甲子園が目前、ということでベンチの中でグラウンドで選手たちが緊張したのはいうまでもない。この緊張をほぐしたのはある選手の一言だった。彼は試合中に我慢できずにトイレに直行した。帰ってきていわく「ほっとした」。ベンチには笑いが渦巻き、のちに監督の平原美夫(故人)はこう語っている。「あれで皆の気持ちがほぐれた」。(敬称略)

 ☆一県に一校出場になったのはいつからなんだろうか。この時はまだ、3県で一代表ということか。この頃、甲子園は今とは比べ物にならないほど遠かったのである。

高鍋高校 平原美夫 その4

スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校 49年 九州大会県予選で待望初V

野球部 3

 前回紹介したように、野球部の「開祖」といわれる野球大好きの美術教師、平原美夫(昭50没)が監督に就任してから高鍋野球部は本格的な歩みを見せ始めた。

 練習時間の半分はお粗末なネットを越えて竹薮に消えたボールを捜すという悪条件と戦いながらの猛練習で、着実に力をつけていた高鍋ナインが、その証明である優勝の二文字を手中にしたのは1949年(昭24)だった。

 同年春の九州大会予選で初優勝を飾ったのである。それまでの平原の苦労が尋常でなかったことは前回書いたが、夫人も例外ではなく、嫁入り道具を売り飛ばしたり、質屋に入れたりして選手のボールやバットを購入した。もちろん自費だ。

 自費といえば食べ盛りの選手たちを養うのも大変だった。彼らを自宅に泊めて合宿したこともあったし、下宿させたこともあったが、すべて平原家の負担だった。

 そうした平原家の情熱と愛情によて育まれたこの年の高鍋野球部は絶好調だった。夏の県大会で優勝した高鍋は大分、宮崎、鹿児島3県の代表校で甲子園出場校を決める東九州大会に出場を決めた。しかし、1回戦で鹿児島実業に1-5で敗れている。

 それでもあきらめず秋の九州大会に甲子園の夢をかけたナインだったが、高鍋野球部史上忘れることのできない事件が起きた。この年の秋も九州大会に出場した高鍋ナインの調子はベストだった。

 長崎商を4-2、八女(福岡)を3-1で破り、晴の決勝戦に進出した。このときのメンバーは次の通り。

【三】杉野(昭26卒)【中】宮越(同)【一】山本(同)【捕】用害(同)【右】渕(同)【遊】岩岡(昭27卒)【左】熊岡(昭26卒)【二】黒木(昭27卒)【投】野村(同)

 決勝戦の相手は強豪の熊本工、結局、この熊本工に1-5で敗れたものの準優勝は間違いない事実だった。これでだれの目にも高鍋の春のセンバツ大会出場は確実に映った。宮崎県勢初、高鍋高初の甲子園出場を前に県内は沸き立った。だが、そうした興奮の行く手に意外なハプニングが待ち受けたいたのである。(敬称略)

高鍋高校 平原美夫 その3

スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校 「オニ」と呼ばれた平原の熱血指導

野球部 2

 1946年(昭21)、県北部大会に出場、リーグ戦で延岡中学、延岡商を破って県大会に臨んだ高鍋に、卒業後、指導者として大成する一人の選手がいた。

 当時のバッテリー、荷出(昭24卒)中崎(昭25卒) より先輩の児玉(昭22卒)がその人である。児玉はチームの中心としても活躍したが、卒業後は指導者で幾多の素材を育て上げた。

 児玉は宮崎大学に進み、卒業後、高鍋東中に赴任した。東中では野球部監督として球児の教育に情熱を注ぐが、その後、児玉が手塩にかけた選手が県の高校球界で大活躍をすることになる。

 後に明大からプロ野球大洋に入った岩岡(昭27卒)もその中の一人だった。神奈川大卒業後、河合楽器に入社、社会人野球でその名を知られた黒木(同卒)らがその教え子だった。

 児玉は中学の野球指導者として数多くの逸材を育てたが、その黒木の母校高鍋野球部                                                                           096a の基礎を築いたのは平原美夫(ひらばるよしお 故人)である。平原は宮崎県東臼杵郡東郷町の出身。宮崎師範(現宮崎大学教育学部)卒後、旧制延岡中を経て47年、高鍋中に美術教師として赴任し、そのまま野球部監督に就任した。

 荒廃した戦後の社会で夢と希望を失った青少年を救うには野球しかない、と考えた平原は野球部のレベルアップに情熱を注ぐ。

 大事にしていた自分のスーツや絵を売ってまでバットやグラブを購入するなど、平原は侵食を忘れて選手たちの指導にすべてのエネルギーをつぎ込んだ。

 その指導方法は「オニ」と選手たちに呼ばれるほど徹底していた。練習は文字通り情け容赦のない厳しい内容で、朝から晩まで野球付けの毎日だった。

 この猛練習が実を結んで、日一日と高鍋野球部は力をつけていく。そして、54年夏、高鍋は夢にまで見た甲子園初出場を実現させたのである。

 次回以降で詳しく説明するが、この高鍋の甲子園出場は宮崎県勢としても初めて、しかも全国唯一の“甲子園未出場県”の汚名を注ぐ快挙でもあった。

写真は「みやざき101人」にお借りしました。

 先生が退職されたあと、体育館で講座が開かれたことがあった。大きい体で印象的でした。威厳があって、直接の担任でなくても怖かったのを思い出します。先生は、若い時に断念された画家に戻っておられて、画家としての時間は取り戻せないようなことをお話にもなりました。画家としての才能も素晴らしく、日展にも当選されていたたようです。

 当時の野球部部室は軍隊が使ってい厩舎で、 壁には馬の糞がこびりついていたとも。先生のスーツは食事になったり、ボールになったりしたそうです。奥様も随分尽力されたとのこと。昨日の、プロ野球オールスターゲームを宮崎で開催できたこと先生の努力の積み重ねの上にあることを知って欲しいと思います。

オールスター第2戦は宮崎で

ぎょーさん、雨がふっちょったかい、オールスターが中止じゃげな。そりゃ、しんきなね。

(たくさん雨が降ったので、オールスターが中止になるそうだ。それは悔しい。)

プロ野球のオールスターゲーム第2戦が、雨の為一日順延された。初めての宮崎での試合だけに、宮崎の関係者はハラハラしたことでしょう。大雨の被害は広がるし、宮崎の雨も間単に止みそうになかった。

 しかし、皆の思いが通じたのか、23日夕方には、空が明るくなり、オールスター第2戦060723_212601 が始まった。サンマリンスタジアムは緑が美しい天然芝です。青空と緑が印象的でした。雨で1日順延されたプロ野球の2006サンヨーオールスターゲーム第2戦は、宮崎市の「サンマリンスタジアム宮崎」に2万9777人の観客が集まった。オールスター戦の九州での開催は01年の福岡ドーム以来で、宮崎での開催は初めて。シーソーゲームを全セが八回の藤本の適時打で勝ち越し、連勝、。最優秀選手には、決勝打の藤本(阪神)が選ばれた。SHINJOはパフォーマンスだけに終わらず、活躍できてよかった。

 九州はじめ各地で大雨の被害にあわれた方には申し訳ないが、宮崎県人としてはオールスター戦の宮崎での開催は嬉しい。これまで、高校野球、プロ野球チームのキャンプなど野球に拘わって見えた方たちに感謝します。解説の衣笠氏も最後にいい球場ですねと言ってくださった。そうそう、野球で県民の意識を高めてくださった、平原氏もあの世で喜んでおられるだろう。宮崎出身の選手、青木選手(東京ヤクルト)、福森選手(東北楽天)ありがとうございます。ソフトバンクの寺原も続いてほしい。

国史蹟の御土居が壊される?

あこがれちょった、京都ん行ったちゃが。いっぺこっぺさるいたかいよ。ひんだれた。

(憧れていた京都にでかけた。たくさん歩いたので疲れた。)

 秀吉が作った、京都を囲んでいた御土居堀の現地見学会。暑いからと午前中の講座です。朝7時に家を出て、名古屋駅7:40発ののぞみ1号に乗る。朝からお客さんいっぱい。無事京都駅に8時20分頃着いた。嵯峨野線に乗り換えて、円町へ。馴染みのお顔が見える。

 1 秀吉が突貫工事で、2ヶ月で作ったと言われている、御土居堀の見学会です。今日とてもよかったのは、北野中学に残る、御土居を実際に見学できたことです。学校の史蹟は2 国の史蹟になってないので、改修するとき、教育委員会に知らせるだけでいいとか。 保存も危うそうですが、学校の先生は御土居をご存知だから大丈夫ですって。知ってかしらずか、子供らは軟式テニスの部活中です。 紙屋川をさかのぼる感じで、北野天満宮まで行きます。

3 食をはさんで、鷹峯の国の史蹟になっている御土居堀の工事をしていると言うので見に行きます。北野天満宮から、ずーっと歩いてから、バスで行きます。佛教大学を通り越してもう少し北に坂道を登ります。スーパーマーケットの跡地を国が買い取り整備されるとか。国家予算を使っての整備です。いいものを作ってもらわないといけませんね。パワーショベルが片付けています。御土居の下層のところを工事されています。上に積み上げれば、頂上部は8メートルくらいの幅になるのだという。

4その後・焼き肉 屋さんオアシスの敷地に入って見学します。真上に乗ったり、横からみたりとたくさん写真も撮りました。屋上から、ショウザンが見えます。光悦寺の方角も望めます。はっきりとは見えませんが。充分に見学させてもらいました。オアシスの女将さんすごーい美人。

高鍋高校 平原美夫 その2

田舎を思い出しちゃ、書いちょっとじゃが、ぼーど忘れちょっと。

(故郷を思い出しては、書いているけれど、大半を忘れてしまった。)

始めに、日向弁で書こうと思いつつも、宮崎を離れて、30余年ぼーど(ほとんど)忘れてしまった。なんとか続けたい。始めたからにはほたっちょけんから。

スポーツ山脈(編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校 昭和5年に誕生し苦闘

野球部 1

 旧制高鍋中野球部は既に1930年(昭5)前後に誕生していた。当時宮崎県の中等野球は3ブロックに分かれて試合をしていた。

 県北部は延岡中と高鍋中、中央は宮崎中、県南部には都城中などがいた。高鍋はそれなりに活躍したようだが、詳しい成績は残っていない。

 その高鍋が県中等学校野球の表舞台に登場するのは終戦直後の46年だった。この年それまで中断していた全国中等学校野球大会が復活したのである。

 といえば威勢がいいが、選手たちのいでたちは、今のギャルが見たら「ウッソー!」と噴出しそうな代物だった。

 飽食の時代とは違って、すべてないものづくしの時代だった。上からいくとまず帽子。今のようなかっこいいものではなく、それまで帝国陸軍の兵隊さんがかぶっていた戦闘帽だった。

 そして、ストッキング。これまた兵隊さんが愛用していた軍隊用の巻き脚半だった。履いていた靴がこれまた傑作だった。雨用に履く長靴か土木作業用の地下足袋だったのである。

 まさに「清貧」の高鍋ナイン。戦争が終わったばかりなので当然と言えば当然だが、彼らを取り巻く環境もひどかった。

 例えばバックネット。バックネットは板切れのつぎはぎ。高さ2メートル、幅5メートルのお粗末なもので、打球がそれを突き抜けたり飛び越えたりするため、割れた校舎の屋根がわらは年間200枚にも達した。

 食事事情も悲惨に近かった。合宿では猛練習で選手たちに同情した全校生徒たちから友情の米、麦が寄せられたが、食い盛りの選手たちが満足できるわけはない。ジャイモを半分入れた混ぜご飯の中からは選手は必死で米粒を探したという。

 46年、待望の県北部大会に出場した高鍋ナインは延岡中、延岡商とのリーグ戦に連勝し県大会に進んだ。エース荷出(昭24卒)、捕手中崎(昭25卒)のバッテリーだった。荷出は卒業後宮崎鉄道(旧国鉄)でも投手で脚光を浴び、退職後、母校のコーチを務めたこともある。中崎は歯科医院を開業する傍ら、母校野球部後援会会長として後輩の面倒を見ている。(敬称略)

 平原先生は次回から登場します。   先生は、美術部の先生なんですが、部室で見かけることはほとんどなくて、校庭で真っ黒に日焼けされていた。書きたいのも、野球部の監督としての実績である。美術部も長い伝統と実績は素晴らしいが、宮崎県民の意識を高めてくださった、野球部監督として書き進めます。

高鍋高校 平原美夫 その1

テニスに行ったっちゃが、なま温きし、のさんかった。

(テニスに行ったが、暑かったので、しんどかった。)

 ネットに高校の先生の名前を探したのに・・・。 

 高鍋高校の美術の担任だった、平原美夫先生のことが知りたくて、ネット検索をしたんですが、「みやざき101人」くらいにしか名前がないので、すごく残念です。私たちは先生の最後の教え子なのです。そこで、考えました。幸い手元にどこかの新聞に連載されたであろう記事があるので忠実にコピーしたいと。表紙がないのでいつの物かもわかりません。タイトル文字が福岡工大付に通っていた、93年柔道世界選手権48キロ級金メダリスト、田村亮子になっています。つまり、この小冊子は93年頃のものかもしれません。

    スポーツ山脈(編集委員 蒲牟田 勇) 

     高鍋高校 前身は藩校『明倫館』

プロローグ 

 ナンキンハゼの下をかいくぐっていくと、3階建ての近代的校舎群が見えた。宮崎県児湯郡の高鍋町にある、県立高鍋高校である。創立は1923年(大正12)4月。数ある宮崎の県立高校の中でも屈指の進学校だ。

 その前身は師弟教育に熱心だった高鍋藩の藩校「明倫館」(1778年創立)。そうした明倫館の流れをくむ学校にふさわしく幾多の人材を輩出してきた。

 卒業生は2万3000人。その中には東京歯科大学長の関根(旧制18回 昭20卒)もいる。関根は高鍋中から七高に進み、日本歯科学会会長も努めている。福岡大医学部長の三好萬(新制3回昭26卒)もOBの一人。官界では厚生省事務次官・黒木(昭27卒)。東大卒後、厚生省に入り大臣秘書官、保険局長などを歴任した。

 武弘の実兄で、宮崎のナポレオンといわれる焼酎(しょうちゅう)「百年の孤独」の製造元の社長・黒木は36年(昭11)卒業組。

 高鍋は昔から進学にもスポーツにも強い、いわゆる文武両道の校風を誇ってきた。スポ096b ーツの現役選手ではプロ野球の福岡ダイエーホークスの池田親興(昭53卒)がいる。高鍋野球部は宮崎県勢では、初めて甲子園の土を踏んでいる、当時県民の熱狂的な人気を集めたものだ。

 ユニークなトところでは、タレントの今井(昭57卒)がいる。モデル出身だけあって、すらりとしたスタイルが売り物。その今井は高校時代は陸上部の選手だった。百メートルを12秒で走りインタハイにも出場、かなり期待されていたという。

 ほかにもチター奏者の河野保人(昭25卒)がいる。チターは名画「第三の男」のテーマソングの楽器として一躍有名になった。河野はわが国のチター奏者NO.1で、世界的にもその名が知られている。

 今高校の世界ではラサールのような大学進学専門と、スポーツ専門の私立高校といった具合に分業化して久しい。そんな流れの中で「文武両道」のスタンスを守り続けてきた高鍋の存在は貴重だ。(敬称略)

 書いているうちにとっても古い物だと実感する。けど、資料がほかにない。平原(ひらばる)先生はまだまだ登場されない。みやざきの101人には酒豪の記事がある。

 文展初入選の祝賀会では、椀の蓋で60杯の酒を飲んで皆を驚かせたという逸話がある。彼は亡くなる前日、5名の知友と共に酒席を持ち12時間飲み続けた。このようなことは初めてのことではなかった。凄い、牧水にもまさるのではないか

源氏物語 と 日向(宮崎)弁

ひにち、めにち、あめばっかりじゃが、しごつすっともよだきごつある。 

(毎日、毎日雨が降るので、仕事をするのも億劫な気分です。)

タイトルのよだきぼについて。 94年3月31日付朝日新聞「大分から見た宮崎」の脇元憲明氏の話を読んで「余は大儀だ」が語源と分かった。なんだかお殿様のせりふのようで意外だった。と言うブログがあるが、宮崎弁のよだきい古語「よだけし」(めんどうだ、おっくうだ)から来ているというのが学説です(方言に学説が出てくるのが素晴らしい! 宮崎弁は学問の対象になっちょっと)。源氏物語に出ているということです。

よろづ うひうひしう よだけしくなりにて侍り 源氏物語 (行幸) 

宮崎県人の気質をも端的に表している言葉として、良く紹介されます。また、多用されています。、「たいへんなことで、行動するのが面倒である」と言う意味から転じて「疲れてめんどくさい、やりたくない」と言う意味で使われています。生来、宮崎県人にはめんどくさがりやが多く、何事にも腰が重い、そんな気質が現れているのですね。怠け者のことを「よだきぼ」「よだきごろ」というが、労働を嫌い、楽をしたいという単純な意味にとどまらず、自分の能力以上の責任を負わされたり、嫌いな人に会わねばならなかったり、そんな精神的負担に対しても「よだきい」と表現します。

  Bokusui 宮崎は延岡出身の若山牧水の記事を中日新聞に見つけました。クリックすると大きくなります。牧水の愛した、尾鈴山はすぐ近くにありましたが、近すぎて見えない山でした。高校からはよく見えましたので、小丸川に行っては尾鈴山のスケッチをしました。真似して、短歌を作ったりもしましたが、お見せ出来ません。悪しからず・・・。牧水の歌は教科書で習いました。その時の担任が素晴らしいお人だったので、とことん解説してくれて、郷土の偉人としてインプットされています。もうすこし、高い評価になると嬉しいですね。犬山の明治村に、石川啄木が家族と住んだ喜之床(床屋)がありますが、牧水はこの建物を実際に訪ねています。啄木の才能をかっていましたから、話がはずんだんでしょうね。臨終にも立ち会っています。牧水の山桜の歌、恋の歌、お酒の歌。大好きです。

マンツーマンで・・パソコン教室

どしゃ降りじゃぁがぁ。行くとこがあっとん、どんげすかい。こんげ降っと、のさんがやぁ。

7/17 月 

パソコン教室で振替の授業をします。一年以上も教えていないので心配。フリーの授業なので生徒さんに聞かれたら、答えればいいのですが、何を聞かれるのか分からないので06minato5準備も充分に出来ません。この6年間に培ってきたものだけが財産です。年配のお方、三人の予定です。暑中見舞いの季節です、取りあえずは筆ぐるめの予習をします。

 ところが、みえた生徒さんはお一人だけ。私って人気ないのかな?と思ったり。今の生徒さんは私が実際に教えるのをご覧になっていませんから、無理からぬことか。ホームページの画像とかの修正をした後、ブログに挑戦です。私自信立ち上げたばかりですから、大きな声で任せなさいと言いたいような思いです。サイトを選ぶことから始めます。写真をいっぱい載せたいのならgooかな。とか思いながら生徒さんの選択に任せます。

 お一人ですから、つきっきりです。私もこんな授業受けてみたかったかな。今パソコン教06minato4 室は人気がありません。一時期に比べれば30%くらいに落ちています。07年に定年退職されるお方が、頼みの綱になるかな。終了時間前に、ブログが完成しました。とても喜んでくださいました。こだわりの発言をしたい。そんなブログになりそうです。来週までにどれだけ更新していただけるか楽しみです。教えることって、楽しいですねぇ。

 海の日は、みなと祭りがある予定ですが、雨です。今年の花火は中止か。ひとりで、テレ06minato2 ビを見てたら、ドンドンと音がしてきたので、雨降ってるのにと思いつつ、傘差して、デジカメもって堤防へ。花火がお好きな人はいるんですね、傘さしたり、車の中からとか。近所のこどもに、「おばさん、居ったんだ」と呼ばれて、いっしょに見物です。遠いんですが、きれいでした。25万人の人出だったとか。みんな、濡れながらご覧になったんでしょうか。   

 デジカメで、花火は難しいですね。遠く離れた場所からなので、大変でした。         

ソフトバンクの寺原 復活

 寺原 いかったね。満塁んときゃ、どんげすっとか思たっちゃが・・。

ソフトバンクの寺原は良かった。プロ入りやっと、5年目の快挙。

王監督も、電話で褒めてくれたって、野球やってて良かったと思える瞬間かな。

新聞には、新生寺原の太字が。これでやっと、脚光を浴びた宮崎・日南学園高時代のイメージを更新できる。プロ野球の寺原と・・。

結果次第で2軍落ちの可能性もあったらしい。良かった。

野球は我が母校も負けていませんよ。と言いたいが、久しく甲子園が遠いなぁ。

高鍋高校の今年のOB祭の今年のゲスト、誰だと思いますか。元、阪神の監督 星野仙一氏ですって。 もう野球はやらんと、中日を辞任されたのに、すぐに阪神の監督になられた、あの時はガッカリしました。ベンチでよう怒っとってね、いろんなもん蹴っ飛ばしたりとんでもない人かと思いきや。病気の奥さんには優しかったらしい。

オールスター第2戦は宮崎で開催される。

2006年7月22日(土) 第2戦  パ・リーグ vs セ・リーグ  (サンマリンスタジアム宮崎 18:15)当日は11:30AMから11:00PMまで球場周辺に「みやざきKONNE広場」を設けて焼酎や地鶏など特産品を販売。12球団のマスコットキャラクターとの撮影会の他、試合前に選手のサイン会を予定しているそうだ。

最近MIYAZAKIは、遠くて、この球場も行ったことがない。春のフラワーフェスタもね・・・。

そろそろ、行かんとみんなに忘れられそう!

はじめまして

Hatuyuki

あるテレビ局の、趣味悠々でブログをやっていたので、私もやってみます。

思いつくままに、あんなこと、こんなこと・・・。

さて、どうなることやら。

とにかく、元気で 前向きなよだきぼママです.。

.

トップページ | 2006年8月 »

2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

ブログパーツ,com

鉄道写真館

  • 0604081
    撮り鉄と乗り鉄の写真館へようこそ!

掛川花鳥園

  • 2
    掛川花鳥園 2006年4月4日快晴
無料ブログはココログ