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ソフトバンクもドラゴンズも強~いね

今かい、洛中にいこか思ちょっと、青春切符がこうてあっと。

(今から、洛中に行こうとおもいます。青春切符が買ってあるので。)

高鍋高校 平原美夫 その6

スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校 57年同県対決に敗れ甲子園逃す

 野球部 6

 きっかけさえつかむと華麗な変身を見せるのが高校体育部。1954年(昭29)、宮崎勢では初めて、もちろん同校としても初めて甲子に園に出場した高鍋も、これを機会に県内屈指の強豪へと華麗な変身を遂げていく。

 夢にまで見た甲子園の土だったが、緊張のあまり高鍋ナインの動きは鈍く、同じ初出場の鶴見工(神奈川)に5-16と大敗を喫した。しかし、全国46都道府県の中で最後に甲子園出場を果たした高鍋に送られた拍手は今も誇り草になっている。

 「学生野球の父」といわれた飛田穂洲も朝日新聞(54年8月23日)で次のように書いている。

 「昨年八日市高校を出した滋賀県に一歩遅れて南の国宮崎県から高鍋高校チームを送り出し甲子園への門戸を開いた事は本大会に大きな喜びをもたらしたと言えよう。これで代表を出さない県は皆無ということになった。大正4年から数えて40年、『勝景』はとにかくとして『ひえつき節』が世に知られる日が来ても宮崎の野球は一向に芽を出さなかった。(省略)

 その高鍋に2度目の甲子園出場のチャンスがやってくるのが57年夏。高鍋野球部の「開祖」といわれる平原美夫(故人)が、私生活まで犠牲にして育て上げたチームが育ち始めた時期でもあった。

 この年の甲子園出場を決める東九州大会(大分、鹿児島、宮崎勢参加)は地元の宮崎県営球場で行われた。

続きはあとで。

どうも、失礼しました。洛中まで出かけておりました。「基礎から学ぶ 日本歴史」という講座です。聖徳太子は実在しなかったという話を聞きに行ってまいりました。厩戸皇子は実在したが聖徳太子は日本書紀がかかれるときに・・・。ただ、ことが大きすぎて教科書に反映されるのはずっと先になるだろうということでした。

続きです。

優勝候補の最有力に挙げられ、2回目の甲子園出場は間違いなしと言われた年で、高鍋は投打に絶好調だった。

 前評判通り勝ち進んだ高鍋は準決勝で強豪の鹿児島商を1-0で退け、同じ宮崎勢の宮崎大宮との決勝戦に臨んだ。当時のメンバーは次の通り。【中】日高(昭33卒)【二】臼井(同)【遊】立野(昭34卒)【左】小森(昭33卒)【右】北村【三】山田(同)【捕】綾部(同)【一】佐藤(同)【投】桑畑(昭34卒)。

 優勝間違いなしといわれたこのチームはしかし、宮崎大宮に4-5の接戦で敗れる。ナインは改めて甲子園出場の難しさを知った。(敬称略)

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