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於大の方が住んだ“椎の木屋敷”

刈谷市の続き 椎の木屋敷跡 於大公園

 Siinoki 椎の木屋敷は、刈谷城の谷をへだてた東北に、位置していた。 初代の刈谷城主水野忠政の娘である於大の方」(14歳)が1541(天文10)年、岡崎の松平広忠16歳のもとへ嫁ぎ、翌年、竹千代(徳川家康)が生まれる。
 竹千代出生の翌年忠政が逝去。家督を相続した於大の方の兄信元が今川氏から織田氏に鞍替えしたため、今川方の広忠は於大の方を離縁Odai_1 し、3歳の竹千代を岡崎に残した。於大の方は刈谷に帰されこの地に住まわれた。 1547(天文16)年、於大の方は阿久比城(知多郡阿久比町)主久松俊勝と再婚。後に3男(康元・康俊・定勝)をもうける。

 銅像が雨に濡れて哀しそうでした。世の無常を訴えているかのように・・・。(刈谷城のジオラマが郷土資料館にあります。椎の木屋敷もあります。)写真は今年5月13日に撮影。

家康の母は刈谷市に!

昨日の続きです。郷土資料館

亀城公園の近くの亀城小学校旧本館が郷土資料館になっています。高札が有りますので写します。

亀城小学校旧本館

この建物は側鉄筋コンクリート造りで昭和3年(1928年)に落成しました。刈谷城(亀城)三の丸跡にある亀城小学校は、その名の示すように歴史と伝統をもった古い学校ですが、当1_2時愛知県にはこのように堂々とした側鉄筋校舎の小学校は外にありませんでした。 -中略- 校舎の傷みもひどくなり改築の声が出るようになりました。けれどもこの建物は、今日では刈谷市に残る数少ない昭和初期の洋風建築です。そこでこの風格ある建物を記念物として保存するとともに郷土資料館として利用することになりました。むかしを偲ぶよすがとして多くの卒業生からはよろこばれています。

  2_1 残ってよかったですね。近くの図書館の分室で収蔵品展をやっていました。数は少ないですが。家康の母、於大の方、幕末の天誅組の志士松本奎堂、宍戸弥四郎の肖像画も展示してあります。

身近なところに歴史的価値の高いものがあり、見学できることは嬉しいですね。いい一日になりました。

伏見の寺田屋

 坂本龍馬の泊まった船宿 “寺田屋” は残っているんでしょうか!!

  何年か前に1_1坂本龍馬恋しいと訪ねた寺20031216_0501田屋。刀傷も銃痕の跡も全部信じてました。龍馬が泊まったとされる部屋・壁・床・おりょうが駆け上がった裏階段。全部本物だって思ってました。

 ところが違うと聞きました。ある講座で・・・。慶応4年正月の鳥羽・伏見の戦いで焼失したらしいのです。 講座でパソコンの画像を見ました。確かに色が付いていました。

 当時の絵図 「城州伏見其外所々出 火之図極本志らべ」 が刈谷市図書館にあるらしいと分かったので行って見てきました。画像ではなくて本物です。瓦版なのか、分厚い和紙に刷ってあります。触ってもいいということです。薩摩屋敷と寺田屋のあたりは朱色に塗ってあります。 尾州屋敷には色は付いていません。薩摩屋敷は火をつけられたんでしょうか。そこだけ朱色になっています。「本しらべ城州伏見大火の図」 を見てもやはり朱色に塗ってあります。残念なことです。

 ほとんどの人が龍馬の泊まった寺田屋は現存していると思っているでしょうね。

 図書館ではお二人の紳士がなにやら研究中でした。今回も図書館の方々はとても親切でした。歴史の好きな方はわからないこと、知りたいことどんどん聞いたらいいですよ。きっと親切にしてもらえます。

どまつり大賞“鳴海商工会猩々”

“猩々”の皆さんは最高でした!!!

 並んだ時に重なった袖に、ちょうちんの灯りがともる。力強い踊りに繊細な仕掛け!!!感激です。大賞もよかった。近藤勇が好きなすし屋のお兄ちゃんに会いに行かなくっちゃ!!おめでとうって言いたい。http://www.domatsuri.com/に写真があります。来年は絶対に見に行きます。

ど真ん中まつりの“猩々”

栄の町は大盛り上がり。

Dsc03024夏の最後のイベント、“ど真ん中まつり”が二日間にわたって開催されました。残念ながらTV観戦です。鳴海商工会の“猩々”に興味があります。大きな着ぐるみ人形というのか、何といっていいのか。大きいけれど、かわいい。去年もいい成績だったようです。去年の写真を掲載します。鳴海は絞りで有名です。衣装は鳴海絞りです。とっても工夫がされた衣装のようで楽しみです。今年の成績は・・・。

『京都地図物語』古今書院を・・・。

 古本屋さんで『京都地図物語』を買う。文部省認可通信教育のシールが小さく貼ってある。歴史入門者にとってはうってつけの本かも。早速開いてみた。

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はじめに 京都を語る際には、まず歴史ありきである。-中略-京都の個性と伝統とは何か?現代都市京都の動きと地域性は?これが本書のテーマである。 -中略-  

 我々は土地と歴史とが不可欠に結びついた点に京都の個性があると考える。その空間的魅力と実態を調査して地図に凝集して表現しようとした。 -略-  ****

 なるほど、京都の魅力ですか。地図物語と言うだけ有って、写真は少ないが、地図は網羅されている。興味深いのは、【京都のイメージ・景観】 観光のまち京都 保存か開発か 京都の景観と開発-嵯峨野を例に- 【よみがえる都と村】京都の城壁「御土居」と堀 などなど・・・。

 観光京都には年間4500万人の観光客が訪れると言う、京都検定が始まって今年は3年目になる。年々京都検定を受ける人が増えているという。検定に向けての講座も増えているようだ。観光客は、保存と開発どちらを望んでいるんだろうか。「歴史的風土特別保存地区」なるものがあるのも京都らしいのか。

 近世都市京都の成立と展開(30ページ)の地図には元禄期の御土居が1994年?の地図に書き加えてある。 信長の京都 秀吉の京都 の記事も興味深い。京都地図物語には、御土居の地図が何枚か掲載されている。現在は部分的にしか見ることの出来ない御土居堀を古地図によって確認できるのは嬉しい。巻末の『2,仮製二万分の一の地形図「京都」 1889(明治 22)年測図』 には御土居の北縁部が完全な姿で残っている。今年7月22日に見学してきただけに感慨深いものがある。

 京都の歴史入門としてはやはりいい本です。ちょっと古くなりかけてはいますが・・・。

父と暮らせば 黒木和雄監督

父と暮らせば』を見ました。BS2で・・。宮沢りえがよかった。それ以上にリアルで恐ろしかったのが、庭に増えていく小道具。原爆瓦、人の体から取り出されたガラス片、美しい顔のほけけ様なのに、顔の半分はぞっとするほど見事に再現された焼けたような傷・・・。石像が壊れるのかなって思うけど。実在したもののレプリカだと思う。広島には行ってませんが、長崎には中学の修学旅行で行きました。平和祈念像と26聖人像は覚えているんですが後は覚えていない。

黒木和雄(くろき かずお)
 073110h1_1 1930年、宮崎県生まれ。57年、監督デビュー。『竜馬暗殺』(74)『祭りの準備』(75)などで高い評価を受ける。2000年、10年ぶりの新作『スリ』が絶賛を浴びる。2003年『美しい夏キリシマ』はキネマ旬報日本映画第1位に選ばれる。『父と暮せば』は『TOMORROW/明日』(88)『美しい夏キリシマ』に続く〝戦争レクイエム三部作〟となる。 写真はこのサイトからお借りしました。

 残念なことに今年4月に亡くなってから、気になりだしました。宮崎県生まれ、『龍馬暗殺』を撮ってみえるし・・・。まだ、見てないが・・・。レンタルショップに行かなければと思っています。

福岡の味?ひよこ

『ひよこ』が届く。

ひよこも最近は東京バージョンがあるので、製造元を調べると、今日の060821_182501 はちゃんと福岡になっていた。福岡のお土産が届いたのである。どちらも同じ「ひよこ本舗吉野堂」が製造してる。味はどうなんでしょう。福岡ひよこと東京ひよこを同時にいただくことはないので分からない。おいしくいただきました。福岡で働いていた時は帰郷する度に、ひよこを買っていったものです。美術部の先輩にも、福岡に行くのだから、福岡の名物を広める重大な使命ががあるんですよって言われたこともありました。何もしなくてもひよこは大きく成長しましたが・・・・。鶏にはならんかったが!!!ひよこの冷菓も同じような顔してる。名古屋には何故、支店がないんでしょう。

 人間関係でトラブルっている。原因は双方にあると思う、生きてればこういうこともありま060821_114201 す。お互いに感性が違うし、環境も違います。じゃ、これからどうするか。立ち止まって、あんたが悪いって言っているわけにはいかない。願いは、努力すれば叶います。思いは伝わるんでしょうか。仲たがいは気持ちいいものではありません。修復したいと思っているだけでは、相手に伝わらない。聞く耳を持っていなければ、なおさら届かない。

 さてさて、時間の過ぎるのを待つしかないんでしょうか。

よき敗者であれ!

中日新聞の『中日春秋』の欄にいいことが書いてある。

 スポーツは勝敗の世界だが、勝敗を超える価値があることの教え。福田雅之助氏は「グTky200608220166 ットルーザー(良き敗者)であれ」とも説く。「勝者は余り性格を現さないが、敗者はよく性格を現す。堂々として潔く、勝者に笑顔で対する態度こそグットルーザーである」と。

 甲子園の夏は終わった。スポーツ新聞に、両校のエースが並んで笑顔を見せている写真があった。ラグビーでいうところの、ノーサイドである。力を出し切った両校の清清しい姿を見た。この二人日本のプロ野球を背負っていくんだろうか。楽しみである。

甲子園・同点再試合に

二つ欲しかった優勝旗

 37年前のImg05062006夏の甲子園大会が 松山商対三沢 18回 0-0 で翌日決勝戦再試合になった時。私は高校生でした。三沢高校のピッチャー、太田幸二選手に声援を送ったものです。リアルタイムでしたからね・・。結局はピッチャーが一人で投げ ぬいた三沢高校は力尽きて負けました。あの時のこと忘れません。この前から高校野球のファンだったんですが、余計に好きになりましたね。筋書きのないドラマといいますが、ほんとにその通りでした。あれから、30余年たった今でも、ひたむきな若者の姿に感動しました。いい一日でした。(写真は三沢高校で講演される太田幸二氏 三沢高校のHPから)

モモさんのブログに励まされて・・

うみゃーもんを はらぎり たべてこまい」って、名古屋弁があるそうです。これを日向弁に直すと うめもんば はらいっぺ くいにいこかい。かな。

おいしいものを お腹いっぱい 食べてこようか になるのか。標準語はつまらん。

モモさんのブログ

 コメントをくださった、モモさんのブログにお邪魔してきました。神戸の記事があるというBinan ことなので探しに行ってきました。モモさんのブログはじめてじっくり読ませていただきました。こんなに、ご自分のことをお書きになって大丈夫かしらと思いました。案の定嫌がらせはあるということで残念です。

 いくつも、しっとりくる文言があって、ワードにコピーさせていただきました。

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少しは打算的になりましたし、
無償の愛でなければとわかってはいても
相手の想いも求めている自分が確かにいます。
それは恋愛関係に限らずです。

・してあげた・・のに・・
のに・・が余計なことですね。
それを思うと思いの外・・
自分が考えてるほど相手はそうでもないことに気づかされ
勝手にさびしくなったりして・・
精神衛生上よくありません。

依存心とやらを捨てなくちゃ~って自分に言い聞かせる。
ううん・・何度もこれまで言い聞かせて・・
まだまだ変わらぬ自分がここにいます。

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 Tyoutyo1 モモさん、いろいろご苦労されて、それでも強く生きていらして素晴らしいですね。若いとは分かっていましたが。私は今、モモさんのお母さんが亡くなられた年齢と同じです。あと、2週間もすれば、53歳です。子育てが終わり、孫の相手をと思っても、今のところ叶わぬ夢です。

 それで一人で龍馬を追っかけているわけです。今しかないと思いながら・・・。赤裸々な自分を書くにはまだまだ時間が必要です。書く気持ちになるかどうかも疑問ですが。モモさんに比べれば平和な人生を送っている自分がおります。不満はいくつでKamakiri もありますが、いつまでも若くは無いのですから。心のスペースは年を取った分だけ広くなっていると信じて、周りに優しく、寛大に接して生きていけたらと・・・。

 私の好きな龍馬は、決してスーパーヒーローではありません。新政府でも仕事をしたかったんです。おりょうと結婚生活をするために。4mしか離れていない土佐藩邸にいれてもらえぬと嘆いていた哀しい人です。

青春18切符で神戸の龍馬の足跡を・・。

JRの青春18切符で出かける、その4です。

 明日から仕事ですから、色々用事があります。そこで早く帰れるように朝一で出かけます。6時36分の電車に乗りたいので、家を6時25分に出ます。金山で新快速米原行きに乗り換えます。たくさんの人が見えますが、年配のご夫婦が多くなりました。大きい声で話して見える人がいて、たまたま乗り合わせたお人におにぎりとか勧めてみえます。世話好きなお人は少なくないのです。

  名古屋駅7時00分発 → 米原駅 8時07分着・8時21分発 → 三ノ宮駅着 10時08分という具合です。延長距離は片道235.9kmです。土日は電車の連絡がいいので助かりまDsc02945 す。神戸市役所のあたりに11年前の震災を記念するものがあって、胸を打たれます。震災の年の夏休みに帰郷するのに同じところを通りました。当時は青いテントや、青いシートがいろんな場所にあって大変だなって思いました。今回は素晴らしい復興ぶりで神戸の人々の力強さに感激です。『頑張ろう 神戸』を思い出しました。

 Dsc02952 神戸海軍操練所跡の碇はすぐに見つかりました。碇は重さ10トンと書いてあったのでどれ程大きいのかと思いましたがまずまずの大きさでした。メリケン波土場の近く、水上署の横にも顕彰碑があります。どちらにも、勝海舟・坂本龍馬・陸奥宗光などの名があります。碇の横には本が広げてあり、そこに名前が書いてあります。龍馬のところだけは彫が浅くなっていました。Dsc02959 皆同じ思いで撫でて行かれるんでしょうね。

 市立博物館にも行きます。涼しくってありがたいです。風があってさほど暑くは感じませんでしたが・・・。中は別天地ですからね。

Dsc02988  JR元町駅から神戸まで電車を乗り継いで、湊川神社に。楠木正成の墓があって、幕末の志士がよく来たらしいので行きます。駅のすぐ近くです。すぐ分かります。

 Dsc02982 次が大事なところです。勝海舟寓居跡に。ちょっと遠いし暑いのでタクシーで行きます。820円でした。祇園神社の横を入っていくと『中道古道 奥平野村当時のメインロード 一本松 ↔ 有馬街道 矢部町一本松から有馬街道へ通じる道 平野の史蹟を守る会』 というかわいい看板が出ていました。そこも過ぎて、見えました。『勝海舟寓居跡 平野の史蹟を守る会 平野歴史クラブ』の名も見えます。

Dsc02985 神戸村の庄屋 生島四郎太夫の別邸です。建物は昭和13年の水害で流出したが門や建物の配置、庭園などは往時をしのばせる。 とありますが中は見れません。それでも、 千葉重太郎と、近藤と、龍馬が歩いているんですから。同じ道を一緒に歩いている、幸せを感じます。神戸海軍操練所の碑を根元に埋めたなつめの木も現存するそうです。

 坂本龍馬を身近に感じることの出来た一日でした。龍馬が歌を作った舞子砲台跡など時間が足りなくて見れなかったところは次の青春18切符にしましょうか。そうそう、神戸花鳥園も見たいですね。かわいいふくろう君が待っていてくれますからね・・・。

九州代表・鹿児島工 がんばれ!

 甲子園球場の高校野球、プロ野球は巨人の視聴率より高いとか・・・。そーりゃそーだわ。毎日、すご~いことが起こっているんですからね。昨日の鹿児島工だって、先取点は取ったけど逆転を許してしまってどうなるかって思ってましたよ。それが、追いついて延長戦でしょ。もうハラハラしました。鹿児島が一点入れてベスト4に残りました。

 19日準決勝です。今日の鹿児島工は早稲田実業に4点入れられています。相手チームは王さんの母校です、鹿児島工も悔いを残さないようにがんばるでしょうね。駆け引きも何もなくて全部実力です。だから面白い!!!!

台風が宮崎に・・・。

昨夜から、ず~っと台風のニュースです。夏台風特有ののろのろ台風です。今朝のテレビでは、なんと、宮崎の木城町がついにNHKのニュースに。高城は県道沿いの20mががけ崩れです。高鍋高校の近くの小丸川では、増水し避難勧告がでていると、映像まで映っています。大淀川も、大水です。一昨年の氾濫を思い出された人も多いだろうなぁと、思います。自然の力は怖いですね。気をつけていても・・・。

つばめタクシーの幸恵さん

 タクシーに乗る。女性ドライバーの方、タクシーをそれほど利用しないからか、二人目です。お名前が自分と、一文字違うだけです。驚きました。違ってた一文字は珍しいと思いますが、後はまあ、多い名前だと思います。

 タクシー強盗とかいろいろあるような気がしたので怖いと思ったことないですかってお聞きしました。24時間勤務ではないということで怖いと思われたことはないそうです。愛・地球博の時に、アジア系のお方を乗せたときには、言葉が通じずに困ったことは有ったそうです。

 凄い人で、ヘルパー2級・ガイドヘルパーなどお持ちのようで、病院に行かれることも多いとか。頼んだ行き先はあまり行ったことがないと言うことで、案内しながら行ってもらいました。どういう訳か一割引にしていただきました。こんなサービス初めて。降りる少し前にメーターが変わったとしても、料金を引いてくださることってないですから。申し訳ないような気がしました。お仕事ですから、少しでも売り上げが多いほうがいいのでは・・・。

 降りる時もびっくり。熱中症など気をつけてくださいねと言われ、車を降りられて、外からドアを開けていただきました。なんとも、名古屋に来て初めてのことでした。宮崎交通は、観光客に対して、こんなサービスを聞いたような気はしますが、心使いが嬉しいことでした。つばめタクシーの幸恵さん。ありがとうございました。

花火大会 米津・川まつり

花火大会に行ったちゃがや、ひとんおおいつんたまげた。花火もまこつ、きれいな花火じゃった。ぎょーさん人がおりゃちかい、てぇげ、ひんだれた。

花火大会に行ったら、人が多くて驚いた。花火も本当にきれいな花火だった。たくさんの人がいたので大変疲れた。

 米津・川まつりが8月15日にEzuweb西尾市の矢作川河畔で、行われた。西尾市に行くのは3回目ですが、花火は初めて。楽しみです。

  その前に、西尾市資料館を訪ねる。常設展は『西尾城とその時代』企画展示は『昭和の風景』をやっていました。懐かしく趣のある建物が多かったなあと思う。西尾城再建計画があるというので、学芸員の方に聞いてみると、募金が予定の三分の一しか集まHonmaruっていないとのこと。掛川城のように再建したいとのこと。再建される日が早く来るといいですね。写真下は本丸丑寅櫓。旧近衛邸でお抹茶と和菓子をいただく。300円でした。広ーい空間で、優雅な時を過ごす・・・・。地図はこちら。

 花火大会。友達ご夫婦と友達のご両親と。皆、足が痛いとか、腰が痛いとか言っているので、早めに行って場所取りをします。堤防のふちっこ、足が伸ばせるところに決めました。

0815hanabi2日差しが弱くなっていい加減です。途中雨を心配しましたが、雨天決行です。川下で、風上なので良いかなって。花火の風下は煙がすごいですからね。今年は人が多いということで、花火が始まる頃には、堤防道路も、折りたたみのいすを持った人、座椅子の人など歩けないほどの人また、人です。

0815hanabi3_1 ゆかたを着た若い人が目立ちます。男の子もけっこう着ていました。あぁーだこうだと、昔の若者?が言いたい放題。今の男は女の子にサービスし過ぎとかね・・。

 露天もたくさん出ているので見物に行きます。キャベツを切っているお兄さんがいてね、0815hanabi4 キャベツの黄色くなった葉っぱも刻んでいたのでびっくり。でもね、きっと、誰もお腹痛くならないよって言って笑ってしまいました。花火も、大きな音といっしょにに楽しみました。

 名古屋みなとまつりでも思いましたが、色が増えました。青・緑など。上がった花火が回0815hanabi 転するなど工夫がいっぱいです。空中でハートに広がったり、渦を巻いたり、見事でした。 帰りは平坂まで友達のご両親を送っていって、一休みしました。もういいかなって、帰途についたら、まぁーだ、歩いている人がいて驚きました。そんな感じなので、車も渋滞していました。楽しい一日帰り着いたら、11時でした。来年も行きたい!!!

靖国神社に祀られている伯父

 高校野球も熱戦が続いているが 、プロ野球も凄い。中日ドラゴンズの独走です。まだ、8月だと言うのにマジックがつきました。プロ野球は今から20年近くも前は、興味がありましたが、このところ関心が薄れていました。今年は王監督率いる日本チームが WBC で世界一になったのがきっかけで応援しています。ソフトバンクの寺原選手にもエールを送っていますが、地元ドラゴンズも強いから応援している。落合監督は同じ年だし頑張ってほしい。感情を表に出さないからか人気はいまひとつですが。強い時は何故か応援したくなります。日本ハムの新庄選手も楽しいし・・・。

 お盆だというのに、それらしき行事何もなし。親戚が身近にいるわけでもなし。仏様も祀っていないので仕方がないが。日本の伝統に縁遠いかなって思う。

 靖国神社に思う。

 今、小泉首相が靖国神社にいつお参りに行くか話題になっている。私の伯父は、海軍に所属、伍長だったか、あまり覚えがないんだが。昭和19年12月31日に戦死した。ことになっている。こんな書き方をするのは、遺骨も遺髪もなんにも届かずに、ただ戦死したという一通の手紙が来ただけだから。一体何歳だったんだろう。若い凛々しい写真が佛壇の横に飾ってあった。海軍の帽子をかぶっている。爽やかな微笑んだ顔です。改めて伯父も靖国に眠っているんだと思った。坂本龍馬など明治維新関係者7751人・西南戦争6971人・日清戦争1万3619人・日露戦争8万8429人・第一次世界大戦4850人・満州事変1万7176人・日中戦争19万1250人・太平洋戦争231万3915人・その他の戦い2571人 合計246万6532人。A級戦犯14人。【朝日新聞 8月1日朝刊による】それにしても太平洋戦争の犠牲者の多いことか。

 小泉さんどうされるんでしょうね。

福井に龍馬の足跡を訪ねる

ありゃいつじゃったどかい、かごしまんりょこうに行ったちゃが、そんとき、ガイドさんがうたやったうたが茶碗蒸しの歌・・じゃったがや。

あれはいつだったか、鹿児島に旅行に行った時に、ガイドさんが歌った歌が茶碗蒸しの歌でした。

うんだぁもこ~りゃぁ~い~けなもんなぁ あ~たいどんのちゃぁわんなんだ
日に日に3度もあらもんせぇば 綺麗なもんごわんさぁ~
茶碗につぅ~いた むっじゃろかい めごなどけあるく むっじゃろかい
まこぉ~て げんねこっじゃ わっはっは!

あらは!、どんなもんか 私の家の茶碗は
日に日に3度も洗うから きれいですよ
茶碗についた虫だろうか? 篭など歩く虫だろうか?
ほんとに恥ずかしいことだ わっはっ


(この歌はある人が茶碗蒸しという言葉を聞いて、茶碗蒸しを知らずに、茶碗に虫がついてるんだろうか?ってことでできた歌です。

 いろんなところで誤解は生まれます。知らないことってたくさんありますからね。ちょっと前のニュースで陽に当たっていたジャガイモを調理してこどもに食べさせたら食中毒を起こした。というのがありましたが。このジャガイモの話は、何で知らんのやろと思って、息子に聞いたら知らないと。私って教えなかったかなって思いました。この息子自分で料理をすることはほとんどないんですから、教えるはずも、聞くはずもなかったかなと実感しました。娘だったら、きっと教えたでしょ。陽に当たると、ジャガイモは緑色に変わります。緑色の部分にソラニンという毒素が溜ります。また、伸びてきた芽にも毒はあります。この毒で人が死ぬかどうかは親から聞いていないのでわかりません。どうなんでしょうね。

 今日の甲子園、福井商業が2回戦で、清峰(長崎)に 7-6 で勝ち 16強入りしHukuieki ました。11日金曜日に、思いついて、福井市に行ってきました。ネット検索して今日中には帰れると急いででかけました。夏休み中ですから、もちろん『青春18切符」を使います。遠いですね。片道ざっと、4時間。

 近くの駅から、金山駅に行き快速大垣駅に乗り換え、大垣駅で、新快速姫路行きに乗り換えます。米原駅で長浜行きに、長浜駅では敦賀行きに敦賀駅で、やっと目的地まで行く福井駅行きに乗り換えます。何回乗り換えましたかね、6回も乗り換えるんですね。遠いはずだわ。ゆっくり出かけてきたので、2時を回っています。

Siro  訪ねるのは、松平春嶽と坂本龍馬の足跡です。駅の観光案内所で、地図をもらい歩きます。日ざしが襲い掛かるという感じで、暑いです。途中、福井郵便局によって、ご当地の切手を買います。一筆啓上でした。すぐに。福井城址に着きます。水を満々と湛えています。水の色も深い緑というかきれいな水でした。それに石垣の見事なこと。さすがに、松平家だなぁと感じます。城のまわりをぐるっと囲んでいます。心が洗われると言いますか、いい気持ちです。橋本Syungaku 佐内の銅像などあります。福井神社に行き、春嶽さんに会います?龍馬の代わりに、よ~、優しくしてくださってとお礼を言います。足元を撫でながら・・・。

 お城の周りを通って、福井市立郷土歴史博物館に行きます。前越前松平家と大安禅寺の特別展をやっています。常設展に興味があるのでいきます。「ふくいの古墳・東大 寺荘園:道守荘・城下町の人々・近代都市の発展と戦・地震」などに分けて展示されています。目指すのは、「松平春嶽をめぐる人々」のコーナーです。有りました。龍馬と三岡八郎が会った場所『莨屋旅館』歴史館のパンフに記載されてなかったので、尋ねると学芸員の方が説明してくださり、地図をコピーしてくださった。何と、親切なお人でしょう。感激です。龍馬も優しい福井の人々に会ったんでしょうね。心温まる出来事です。

 時Tabakoya_2間がありません、地図を頼りに西の方へ、裁判所を通り過ぎ南下しました。途中わかならくなったので、川まで行き、地図を確かめます。それからは、すぐに分かりました。莨屋旅館跡です。真新しいですが、石碑があることに感謝です。しばし龍馬を思って佇む。とってもいいところでした。

京ことばと宮崎弁

最近、言葉について考えている自分に気が付く。きっかけは尊敬する方とメールのやり取りをするようになったからと、このブログです。以前は宮崎弁とも言わなかった。日向弁と日向時間と・・・。こんなところまで方言が進化している。宮崎弁って何・・。敬語じゃないし、丁寧語かな。

日向弁を探していて、“宮崎弁と京都弁は対極にある”というサイトを見つけた。

 http://www.ne.jp/asahi/miyazaki/folklore/tubuyaki20020317.htm

 このサイト、興味深い。何故って、メールの相手が京都在住なんです。これが本当なら多少くらいの私の努力では、意志の疎通ははかれないのではと、不安になる。

『宮崎弁と京都弁は対極にあると大学の授業で習ったことがある。
京都弁というのは、敬語を微妙に使い分けるという。
敬語の必要性と重要性を感じているからであろう。
一方、宮崎県人は敬語の必要性を感じていないように思われる。
敬語とは、あくまでも相手を敬う言葉という意識よりも、
自分の心を隠す言葉という印象が私には強い。
だからこそ、敬語は話さないに越したことはないし、
多少、心を開くことができる年配者には
タメグチをきいてしまうことが多かった。
心のこもらない言葉なんだろう!』

 実際、この通りの話し方をしている。自分の心を隠す敬語は話さない。どちらか言えば誰とでも気さくに話すのが、一番心を開くと信じている。京都は今でも、お公家さんの世界が続いているんですね。ずっと、京都は日本の中心だったんですね。京都学入門の講座では、天皇家の話だけでも時間が足りない。聞いているこちらも、もっともっと聞きたいと思う。

 スポーツ山脈は、ラグビー部とかに続くんですが、少し休憩してその後の高鍋高校の野球部の対戦成績など・・。但し、それも平成10年まで。

野球部の歴史と対戦成績。

全国高校野球選手権大会出場(夏)

第36回大会(昭和29年)  1回戦 鶴見工 16-5 高鍋

第41回大会(昭和34年)  1回戦 高鍋  4-0 中京商

                    2回戦 天理  1-0 高鍋

第43回大会(昭和36年)  1回戦 秋田商 1-0 高鍋

第47回大会(昭和40年)   1回戦 不戦勝

                    2回戦 高鍋 6-0 保原

                    3回戦 高鍋 6-0 東邦  

        ( BEST4 )    準決勝 銚子商 2-1 高鍋

第55回大会(昭和48年) 1回戦 高鍋 3-0 金沢市立

                   2回戦 高鍋 4-1 日大山形

                   3回戦 北陽 1-0 高鍋

第65回大会(昭和58年) 1回戦 高鍋 10-2 旭川竜谷

                   2回戦 池田 12-0 高鍋

          通産成績 12戦 6勝6負

選抜高校野球大会出場(春)

第34回大会(昭和37年) 1回戦 PL学園 3-2 高鍋

第34回大会(昭和40年) 1回戦 向陽 5-2 高鍋

第38回大会(昭和41年) 1回戦 高鍋 6-1 徳島

                     2回戦 中京商 6-5 高鍋

第70回大会(平成10年)1回戦 高鍋 4-2 関西学院

                      2回戦 高鍋 4-3 広島商

                       3回戦 日大藤沢 4-3 高鍋

          通算成績 7戦3勝4負

   九州大会出場(106回中)28回出場

       決勝進出 7回で優勝2回

  宮崎選手権大会(48回中)優勝9回

  新人高校野球大会(48回中)優勝5回          

                                                    

平原野球部最後のページ

 宮崎の男性のことを、いもがらぼくと(芋柄木刀)といいます。「いざというときに頼りにならない、役に立たない男」という意味。ただし、「格好は良い」ということが前提です。≪とイモ殻=といもがら;サトイモの同類、芋は食べない≫の茎で作った木刀じゃもんじゃかい、反りがびっとしちょって格好が良いっちゃが。じゃけんどん、いざチャンバラを始めたら、しのぎを削っただけでポキッとへしょるるじゃねえですか。じゃかい、「見てくれだけの見掛け倒し」を≪芋殻木刀≫ちゅうとです。

 平原先生は、芋柄木刀とは違ってたかもしれない。もちろん格好はよかった。威風堂々というのは先生のことだろうと思う。よく焼酎を飲まれた人のようです。

 スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

 高鍋高校 現在部員50人で2時間半の猛練習

 野球部17 平原美夫  その16

 1983年(昭58)夏、高鍋は10年ぶりに甲子園に姿を見せた。当時の先発メンバーを紹介しよう。 【三】小城(昭59卒) 【二】増田(同) 【右】坂口(同) 【中】横山(同) 【投】清野(同) 【捕】芝(昭60卒) 【一】尾川(昭59卒) 【遊】小泉(同) 【左】本部(同) 監督は現在の猪股(昭48卒)。

 久しぶりに攻守のバランスのとれたチームだった。無理のないフォームから直球、シュート、カーブの3種類をコントロール良く低めに決めるエースの清野、打の中心は、明大時代に主将を務め、社会人野球日本石油に入り、全日本の副主将としてバルセロナ五輪に参加した坂口ら。

 10年ぶり春夏通産9度目の甲子園出場を果たした高鍋の初戦の相手は旭川龍谷(北海道)。この試合は清野が被安打3、奪三振9の好投を見せ、打線も16安打をマークして10対2の大差で圧勝した。

 この好投で清野は本格派として注目されたが、第2戦の相手は水野(巨人)を擁し強打を誇った池田(徳島)だった。予想通り池田の猛打が爆発、1回戦で 3安打に抑え清野は、20安打12点を奪われて完敗した。監督の猪股はこう感想を語っている。「投手も良かったし、打線も素晴らしい。池田はやはりすごいチームでした。」

 この完敗を反省材料に高鍋は10度目の甲子園を目指してきたが、その課程で黒木(昭61卒)木村(昭62卒)ら数多くの逸材を生んできた。「文武両道」の伝統を誇る高鍋らしく、今年の野球部からも早大法学部に投手の近藤が合格、野手の高松、平川が明大合格を決めている。

 しかし、甲子園行きの夢はなかなか実現しない。県大会レベルではいつもいいところまで行く力は持っているのだが、あと一歩。現在の部員数は50人、甲子園を夢見て一日2時間半の猛練習をこなしている。「OBからもシリをたたかれているのですが、うまくいかなくて申し訳ない」と猪股。この高鍋が甲子園に再び姿を見せるのは、いつの日だろうか。(敬称略)

JR東海運行停止!!

電車にのろうかしらんって、駅にいったっちゃが、 運転中止ってかいちゃっと。たまがったさ。どんげしてかえろかって、おもたっちゃが違う電車に乗って帰ったけんが、駅かいといかったつよ、ひんだれた。

電車に乗ろうと駅に行ったら、運転中止と書いてあったので驚いた。どうして帰ろうかと思ったが違う電車で帰った。が、駅から遠いので大変疲れた。

 夜友達3人と飲み会。6時から始まったのに、時間の過ぎるのはあっという間です。歴史の話、家庭の話などなど、喋り足りないけど、お開きです。そろそろ、10時です。居酒屋 “Mさ来” です。チューハイが格安だったからでしょうか、一人2、000円でお釣り。あーぁ楽しかった。

 JR名古屋駅に着いたら、電光表示の時間が東海道線だけ、一時間くらい前の時間。おかしいなぁ。よ~く見ると、運休・・・。三河塩津駅で人身事故だって。そりゃ、仕方ないわ。Densya これまでにも一度経験あり。その時は事故だって中々発表されずにじーっと待ってました。名鉄の笠松駅での事故でした。昼間だったのでバスで帰りましたが、今回は名鉄に乗り換えます。名鉄は駅から家まで遠いんです。時間が遅いので、市バスも走っているかわからないですし・・・。今頃駅に降りても、タクシーもないのだろうなぁ。頼りになる息子にメールします。「いいよ。どこ行けばいいのって。」無事、帰宅できました。それにしても何で今日、今の時刻なのって、うらめしい。などと言ったら、そういうこともあるわって言われてしまいました。息子の方が人間が出来ているかもしれんと感じました。 

 

 スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

 高鍋高校 父にはなむけの甲子園平原美樹監督

 野球部  平原美夫 その17

 1971年(昭46)、高鍋野球部育ての親といわれた名伯楽・平原美夫(故人)の定年退職後、同じ美術教師の石井秀隣(ひでさと=昭27卒、Kumasemi 宮崎県立本庄高校教諭、福岡教育大学美術科)が、新しい部長に就任したことは、前回紹介した。そして2年後、5回目となる夏の甲子園に出場した。

 監督は美夫の一人息子である美樹(昭39卒)。退職した父美夫は本来の美術家の生活に戻り、絵筆を握ってヨーロッパなどをスケッチ旅行したり、個展を開いたりした。その美夫は75年4月に急逝する。美樹が父親譲りの熱血指導で鍛え上げたチームが、甲子園で活躍したのが、父へのはなむけだったろう。

 あの怪物江川卓(作新学院)に明け、そして暮れた大会である。その人気はすさまじく、江川の試合には野球ファンのほとんどがテレビの前に集まるので、全国の最大瞬間電力消費量はピークに達した。地元の関西電力では、猛暑と雨不足のダブルパンチに見舞われ、電力供給予備力ゼロを記録。大手会社にエスカレーター、冷房の一時ストップを要請するという綱渡りの送電だった。

 江川中心の、「江川大会」といった雰囲気の片隅で高鍋は地道に勝ち進んだ。1回戦の金沢市立戦は3対0.2回戦の山形日大も4対1で一蹴した。そして3回戦、強豪の北陽が相手だったが、0対1の大接戦の末惜しくも敗れた。

 この時の先発メンバーは次の通り。【中】富山(昭50卒) 【遊】平田(昭9卒) 【三】都原(同) 【捕】大富(同) 【一】古藤(同) 【二】吉本(同) 【投】小川(昭50卒) 【右】石黒(同) 【左】樋口(昭49卒)

 日体大に進んだ富山と平田は首都大学リーグのベストナインに選ばれている。美樹の教え子には池田親興(昭53卒、阪神、ダイエー)がいる。池田は中学時代、柔道の選手。その素質を見抜いた美樹が野球部にスカウトし投手に転向させた。

 高鍋野球部が、6回目の夏の甲子園に出場するのは83年。実に10年の歳月を要している。監督は、現在に猪股(ひとし)に代わっていた。(敬称略)

夏の甲子園始まる

やっとはじまったっちゃね。ことしゃ、のべおかげな。せぇいっぺはりきちかいやってくるっといちゃがね。

やっとはじまったね。今年は、延岡だそうだ。精一杯張り切ってやれるといいのに。

 スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

 高鍋高校 73年アッと驚く打撃改革で進撃

 野球部 16 平原美夫

それまで夏の大会4回、春3回の甲子園出場を記録して、全国にも名を知られた高鍋野球部は1971年(昭46)、大きな転換期を迎えることになる。野球部の育ての親である平原美夫(故人)が定年退職を迎え、部長兼監督の座を降りたのだ。

 後任の部長は石井秀隣(ひでさと、52年卒)。平原の美術でのまな弟子で、彼の強い要請で就任した。

 石井は最年少(32歳)で宮崎県展無鑑査の画家となった美術教師、野球を通じてというより、芸術家としての信頼感が石井に後事をを託させたといえよう。

 石井は野球にはズブの素人だった。だが、戦後に少年時代を送った人のほとんどがそうであったように、野球大好きの野球少年でもあった。それに石井が在学していたころの高鍋野球部は、いわゆる第一期黄金時代、同期生に岩岡保宏(52年卒、横浜球団)や黒木広重(同、大洋漁業)らがいたことも野球熱に拍車をかけたようだ。

 平原の意志を引き継いで、石井はひたすら野球部の充実に情熱をささげたが、2年後、73年夏の甲子園出場で、その努力が報われる。5回目となる甲子園出場であった。

 この年の監督は平原(64年卒)。先に紹介した高鍋野球部の「開祖」平原美夫の一人息子だった。高校野球の歴史でも珍しい「親子監督」が実現したのである。恩師の愛息とともに甲子園に出かけることになった石井は、思いもかけぬ時の流れに驚き、そして感動した。

 石井は当時の思い出をこう語っている。「思いもかけぬ出来事だったが、私の高鍋生活16年の中でも最も感動的な年でした」。

 さすがは名伯楽といわれた美夫の愛息。父の厳しい指導に耐え、早大野球部で心身を鍛え上げられた美樹は、母校の監督に就任すると、思い切ったチーム改革に乗り出した。選手たちが持っている能力をどうすれば100%引き出せるか、美樹の努力が始まった。その一つが才能に応じて打者を右から左、左から右に転向させたことだった。今ではこうした右から左への転向は当たり前だが、当時は珍しく、特別な目で見られたこともあった。

 その美樹の決断が功を奏して、73年の高鍋は県大会でも甲子園でも面白いように勝ち進んだ。(敬称略)

 **  平原先生がついに、定年退職されてしまった。当時美術部に所属していた私は、ある土曜日の朝の特訓(デッサン)にでた後で、美術の授業をサボって教室で友達と遊んでいた。午後はまた、先輩に呼ばれてデッサンに行ったら、先生に「授業はどうしたんだ」って言われて、用意してあった言い訳、「保健室にいました」を飲み込んだことがあった。野球部しか知らんと思っていた私の負けでした。

監督が病気で倒れる!!!

おとうさんな、あんべがわりーごつじゃが。しごつはほらくっちょちかいひるねげな

おとうさんは具合が悪いので、仕事はそのままにして昼寝だそうです。

 高鍋高校は甲子園でベスト4が一番の成績でした。優勝したことはありません。どうも、宮崎代表が優勝したこともないんです。今年はどうなりますかね。

スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校 66年センバツで5三塁打

野球部 15 平原美夫 その14

 1965年(昭40)夏の甲子園で、エース牧憲二郎(76年卒、南海、オリックス、現オリックス寮長)を擁してベスト4にまで進出した高鍋は、翌66年春のセンバツにも出場した。3度目のセンバツ出場、通算7度目の甲子園だった。

続きはあとで・・・・翌日になってしまった。楽しみにしてくださってるのに申し訳ないです。

 この3度目の出場で高鍋は、センバツでは初めて勝ち星を挙げた。宮崎県勢としても初めてのセンバツ初白星。文字通り三度目の正直だった。

 当時の先発メンバーは次の通り。【中】井上(67年卒) 【二】徳山(同) 【三】海老原(68年卒) 【遊】戸原(67年卒) 【左】黒木(68年卒) 【右】石川(同) 【一】菅原(同) 【投】西原(同) 【捕】永友(同)

 3度目のセンバツ出場を果たした高鍋の相手は古豪の徳島商、高鍋はこれを6対1で一蹴した。そして2回戦ではこの大会の優勝となる中京商と顔を合わせた。

 宮崎県のチームとして初めてセンバツ初勝利を挙げて意欲揚がる高鍋ナインは、この強豪に正々堂々と勝負を挑んだ。中京商は立ち上がり、試合巧者ぶりを発揮して先制の4点を奪う。

 しかし高鍋も負けていない。6回、鋭い反撃で5対4と と逆転してしまった。結局最後は中京商が底力を発揮、高鍋のエース西原の疲れをついて3本の長短打とスクイズを決めて勝利を呼び戻した。

 大接戦の末、中京商に敗れはしたが、実は後世に残る面白い記録をつくっている。この大会、高鍋1チームで何と5本の三塁打を放ったのである。これは25年(大14)以来の記録だった。当時の高鍋ナインがいかに俊足だったかを物語っている。

 この時の高鍋にはちょっとした異変が起きていた。高鍋野球部を育て上げた監督の平原美夫(故人)が病気で倒れたのである。

 平原に代わって急きょ、OBの宮越(51年卒)が監督として甲子園でさいHikijinjya 配を振るった。その後、病気が治り平原は再び監督の座に復帰する。(敬称略)

 びっくりしました、平原先生が病気なんてね・・。真っ黒に日焼けされて、いつもお元気そうでしたから・・・。

惜しくも準決勝で負ける

夏の甲子園組み合わせが決まりました。甲子園での練習も始まりました。いよいよですね。今年の優勝候補はどこなんでしょうね。宮崎代表、延岡学園の相手校は卓球の愛ちゃんの学校です。スポーツ熱心な学校ですから、強そうです。授業の半分は体育の授業だとか。

スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校 木樽から先制もサヨナラ負け

野球部 13 平原美夫 12

1965年(昭40)夏、通産6度目の甲子園出場を果たした高鍋は、エース牧慶二郎(昭41卒、南海-オリックス)の快投でテンポ良く勝ち進んだ。保原(福島)を1安打、東邦をこれまた1安打と完璧なピッチングで抑え込んだ牧が、準決勝で大会随一の木樽政明(銚子商)と大会史上に残る投手戦を演じたことは前回紹介した。

 どちらも大会屈指の本格派、牧は変則的なセットポジションから重い速球と大きなカーブ、オーソドックスな投法の木樽は、外角速球とキレのいいカーブを対抗した。もし両者に違いがあるとすれば、牧が比較的カーブを多投したことだろうか。甲子園にはこの投手戦を一目見ようと約2万人が詰め掛けたが、そうした緊張の中で先取点を挙げたのは高鍋だった。中堅後方への大飛球を背走また背走で捕球した矢野(詳41卒)の超美技などで牧をバックアップしていた高鍋は4回、その矢野が木樽のカーブをうまく右翼線に二塁打、バントで三進した後、3番小沢(昭41卒)が内角高めの速球を左前に落として先制した。

 しかし、高鍋の得点はこの1点だけで、力投する牧を孤立させる結果となった。孤軍奮闘の牧は8回、銚子商打線に捕まって同点にされ、最終回、1-2とサヨナラ負けを喫してしまう。

 だが、ここまで戦えばナインに悔いはなかった。高鍋野球部の育ての親といわれた監督の平原美夫(故人)に「これまでで一番下手なチーム」と酷評され、牧を除いてこれといった大柄な選手はいなかった平凡なチームにしては、上々の出来だった。大会関係者の評価も高く「優勝してもおかしくないチーム」といわれた。大会を通じて12打数6安打をマークした小沢は優秀捕手に選ばれている。

 この大会、そうした激戦の間隙(かんげき)を縫って同じ九州勢の三池工が優勝するのだが、ベスト4に九州勢が2校も残ったのは史上初だった。もちろんこの大活躍に地元の高鍋町をはじめ、宮崎県民は大フィーバーで帰郷したナインを迎えた。そして、高鍋の名は全国に広がり一躍有名校となった。(敬称略)

昭和40年・牧と木樽の甲子園決戦

日向弁が東北のことばににちょっるげな。たまげるひともおっとかんしれんが、根拠はあっとよ。落ち武者がキーワードじゃが。

宮崎の方言と東北の言葉は似ているそうだ。びっくりする人もいるかもしれないが、根拠はあります。落ち武者がキーワードです。

 米沢藩主、上杉鷹山のことが知りたくて愛知県東海市の平洲記念館に行きました。江戸時代のとても立派な学者です。平洲は鷹山の最も信頼していた先生です。出会いは鷹山が14歳、平洲が37歳の時でした。17歳で藩主になった鷹山は、平洲の教えを実行して、窮乏を極めていた藩財政を一代で立て直します。その、鷹山は高鍋藩の藩主の息子です。が、江戸屋敷生まれの江戸っ子で、おそらく、高鍋の土を踏んだことはないと思われます。職員の人にとても親切にしていただきました。

 スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

 高鍋高校  牧と木樽の甲子園決戦

 野球部 12  平原美夫 その11

1965年(昭40)春、エースの牧憲二郎(66卒、南海、オリックス、現オリックス室長)を擁して野球部史上2度目のセンバツ出場を果たした高鍋は、頼みの牧が8個の三振を奪いながらピンチをしのぎ切れず長打を浴びて1回戦で涙をのんだ。

 その反省から、高鍋野球部の育ての親といわれる監督の平原美夫(故人)は、牧が不調でも何とか戦えるように野手の守備力と惰力を鍛え上げた。そしてこの年の夏、春夏通じて5度目の甲子園出場を果たした。

 結論からいうと、この大会は原辰徳の父親貢に率いられた同じ九州の三池工(福岡)が優勝するのだが、大会前の評判は銚子商(千葉)の木樽正明(ロッテ)と九州ピカ一の牧に話題が集まっていた。二人とも真っ向から投げ下ろす力投派だったことも、その人気に拍車をかけた。

 高鍋は1回戦不戦勝、2回戦は保原(福島)に6-0で快勝準々決勝も古豪の東邦(愛知)を寄せ付けず6-0で一蹴した。牧は絶好調、この二試合で許したヒットは、わずか2本だった。

 「さあ全国制覇だ」。この快進撃に高鍋町民はもとより県民全体が大騒ぎとなった。牧の球は速く、そして重かった。ノーワイドの変則モーションで、走者がいるときも一風変わったセットポジションで打者を困惑させた。

 その牧と木樽がついに準決勝で顔を合わせる。試合は予想通り両者の投げあいで展開、息詰まる投手戦となった。牧の重い球、木樽の速球との対決は事実上の決勝戦ともいわれた。

 この時の先発メンバーは次の通り。【中】矢野(66年卒)【遊】後藤(同)【捕】小沢(同)【投】牧憲二郎【一】水町(66年卒)【二】都原(67年卒)【左】長町(66年卒)【三】木下(同)【右】井上(67年卒)。

 火を噴くような牧と木樽の投げあいは続いた。要所で重い球を決める牧の調子は、ほぼベストに近く、それは打者の胸元をえぐる木樽の快速球より威力が感じられた。

 そうした緊張感の中で先取点を奪ったのは高鍋だった。(敬称略)

夏の甲子園 後は宮城県だけ

「スコール」のんだこつあっとね。ぎゅうにゅうでつくっちゃっと

「スコール」をのんだ事がありますか。牛乳で作ってあるんですよ。

Sa360002 ♪^^ あ~いのスコ~ォ~ール。♩^   宮崎県人なら、誰でも歌えるこの歌のスコ ール。宮崎が発祥の地だと知らない人が多い。愛されて30年だとか。最近は全国どこのコンビにでも売られるようになりました。

スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校 九州制しセンバツ初出場

野球部 10 平原美夫

高鍋の選抜大会初出場は夏の甲子園に3度目の出場を果たした翌年、1962年(昭37)であった。この時の先発メンバーは次の通り。

 【捕】屋敷(昭36卒)【中】谷(同)【遊】井上(同)【右】古屋(同)【三】押川(昭39卒)【左】野津手(昭38卒)【一】江藤(同)【投】清(昭39卒、元西鉄、近鉄、東京在住)【二】平原(同高鍋元監督)

 61年秋の九州大会を完璧に制覇してのセンバツ出場だった。

 このメンバーのなかで全国的に注目された選手が二人いた。エースの清と二塁手の平原である。二人ともまだ1年生。

 新聞は当時の高鍋の戦力についてこう書いている。「清の決め球はブレーキ鋭いドロップ。九州ではまだ完全に打たれたことはないほどの威力があった。最近は外角をつくストレートにもスピードがついてきた」。

 もう一つの特徴は九州一といわれたレベルの高い守備力だった。井上を中心とする内野陣は動きが堅実で、特に平原はそれまで18試合ノーエラー、左右そして前後のシャープで華麗なフィールディングで高い評価を得ていた。平原は野球育ての親といわれる当時の監督、平原美夫(故人)の一人息子で、「甲子園の親子鷹」として騒がれた。

 こんなふうに紹介すると守備力のチームといえるが、攻撃面も弱いわけではなかった。チーム打率2割6分9厘、個人的にも古屋の3割7分を筆頭に井上2割7分9厘、押川3割2分7厘、トップを打つ屋敷も2割9分9厘をマークしていた。

Takanabesta11  高鍋高野球部史上でも特筆すべき強力チームだったが、甲子園での最初の相手が悪かった。あのPLだったのだ。この大会では史上初の春夏連覇の大記録をつくった作新学院が優勝したが、PLも結構強かった。

 そのPLと顔があった高鍋は不運。清が好投し、平原をはじめ鉄壁の内野陣が彼を盛り上げたものの、大接戦の末2対3で惜敗、選抜初陣を飾れなかった。(敬称略)

写真は高鍋駅構内 トロントロンファクトリーからお借りしました。

訪問者の皆さんが100人になりました。感謝申し上げます。これからも、どうぞよろしくお願いいたします。 管理人 yodakibo ♥♡♥♡♥

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