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夏の甲子園始まる

やっとはじまったっちゃね。ことしゃ、のべおかげな。せぇいっぺはりきちかいやってくるっといちゃがね。

やっとはじまったね。今年は、延岡だそうだ。精一杯張り切ってやれるといいのに。

 スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

 高鍋高校 73年アッと驚く打撃改革で進撃

 野球部 16 平原美夫

それまで夏の大会4回、春3回の甲子園出場を記録して、全国にも名を知られた高鍋野球部は1971年(昭46)、大きな転換期を迎えることになる。野球部の育ての親である平原美夫(故人)が定年退職を迎え、部長兼監督の座を降りたのだ。

 後任の部長は石井秀隣(ひでさと、52年卒)。平原の美術でのまな弟子で、彼の強い要請で就任した。

 石井は最年少(32歳)で宮崎県展無鑑査の画家となった美術教師、野球を通じてというより、芸術家としての信頼感が石井に後事をを託させたといえよう。

 石井は野球にはズブの素人だった。だが、戦後に少年時代を送った人のほとんどがそうであったように、野球大好きの野球少年でもあった。それに石井が在学していたころの高鍋野球部は、いわゆる第一期黄金時代、同期生に岩岡保宏(52年卒、横浜球団)や黒木広重(同、大洋漁業)らがいたことも野球熱に拍車をかけたようだ。

 平原の意志を引き継いで、石井はひたすら野球部の充実に情熱をささげたが、2年後、73年夏の甲子園出場で、その努力が報われる。5回目となる甲子園出場であった。

 この年の監督は平原(64年卒)。先に紹介した高鍋野球部の「開祖」平原美夫の一人息子だった。高校野球の歴史でも珍しい「親子監督」が実現したのである。恩師の愛息とともに甲子園に出かけることになった石井は、思いもかけぬ時の流れに驚き、そして感動した。

 石井は当時の思い出をこう語っている。「思いもかけぬ出来事だったが、私の高鍋生活16年の中でも最も感動的な年でした」。

 さすがは名伯楽といわれた美夫の愛息。父の厳しい指導に耐え、早大野球部で心身を鍛え上げられた美樹は、母校の監督に就任すると、思い切ったチーム改革に乗り出した。選手たちが持っている能力をどうすれば100%引き出せるか、美樹の努力が始まった。その一つが才能に応じて打者を右から左、左から右に転向させたことだった。今ではこうした右から左への転向は当たり前だが、当時は珍しく、特別な目で見られたこともあった。

 その美樹の決断が功を奏して、73年の高鍋は県大会でも甲子園でも面白いように勝ち進んだ。(敬称略)

 **  平原先生がついに、定年退職されてしまった。当時美術部に所属していた私は、ある土曜日の朝の特訓(デッサン)にでた後で、美術の授業をサボって教室で友達と遊んでいた。午後はまた、先輩に呼ばれてデッサンに行ったら、先生に「授業はどうしたんだ」って言われて、用意してあった言い訳、「保健室にいました」を飲み込んだことがあった。野球部しか知らんと思っていた私の負けでした。

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