« 夏の甲子園 後は宮城県だけ | トップページ | 惜しくも準決勝で負ける »

昭和40年・牧と木樽の甲子園決戦

日向弁が東北のことばににちょっるげな。たまげるひともおっとかんしれんが、根拠はあっとよ。落ち武者がキーワードじゃが。

宮崎の方言と東北の言葉は似ているそうだ。びっくりする人もいるかもしれないが、根拠はあります。落ち武者がキーワードです。

 米沢藩主、上杉鷹山のことが知りたくて愛知県東海市の平洲記念館に行きました。江戸時代のとても立派な学者です。平洲は鷹山の最も信頼していた先生です。出会いは鷹山が14歳、平洲が37歳の時でした。17歳で藩主になった鷹山は、平洲の教えを実行して、窮乏を極めていた藩財政を一代で立て直します。その、鷹山は高鍋藩の藩主の息子です。が、江戸屋敷生まれの江戸っ子で、おそらく、高鍋の土を踏んだことはないと思われます。職員の人にとても親切にしていただきました。

 スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

 高鍋高校  牧と木樽の甲子園決戦

 野球部 12  平原美夫 その11

1965年(昭40)春、エースの牧憲二郎(66卒、南海、オリックス、現オリックス室長)を擁して野球部史上2度目のセンバツ出場を果たした高鍋は、頼みの牧が8個の三振を奪いながらピンチをしのぎ切れず長打を浴びて1回戦で涙をのんだ。

 その反省から、高鍋野球部の育ての親といわれる監督の平原美夫(故人)は、牧が不調でも何とか戦えるように野手の守備力と惰力を鍛え上げた。そしてこの年の夏、春夏通じて5度目の甲子園出場を果たした。

 結論からいうと、この大会は原辰徳の父親貢に率いられた同じ九州の三池工(福岡)が優勝するのだが、大会前の評判は銚子商(千葉)の木樽正明(ロッテ)と九州ピカ一の牧に話題が集まっていた。二人とも真っ向から投げ下ろす力投派だったことも、その人気に拍車をかけた。

 高鍋は1回戦不戦勝、2回戦は保原(福島)に6-0で快勝準々決勝も古豪の東邦(愛知)を寄せ付けず6-0で一蹴した。牧は絶好調、この二試合で許したヒットは、わずか2本だった。

 「さあ全国制覇だ」。この快進撃に高鍋町民はもとより県民全体が大騒ぎとなった。牧の球は速く、そして重かった。ノーワイドの変則モーションで、走者がいるときも一風変わったセットポジションで打者を困惑させた。

 その牧と木樽がついに準決勝で顔を合わせる。試合は予想通り両者の投げあいで展開、息詰まる投手戦となった。牧の重い球、木樽の速球との対決は事実上の決勝戦ともいわれた。

 この時の先発メンバーは次の通り。【中】矢野(66年卒)【遊】後藤(同)【捕】小沢(同)【投】牧憲二郎【一】水町(66年卒)【二】都原(67年卒)【左】長町(66年卒)【三】木下(同)【右】井上(67年卒)。

 火を噴くような牧と木樽の投げあいは続いた。要所で重い球を決める牧の調子は、ほぼベストに近く、それは打者の胸元をえぐる木樽の快速球より威力が感じられた。

 そうした緊張感の中で先取点を奪ったのは高鍋だった。(敬称略)

« 夏の甲子園 後は宮城県だけ | トップページ | 惜しくも準決勝で負ける »

教師」カテゴリの記事

高校野球」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/183946/11208205

この記事へのトラックバック一覧です: 昭和40年・牧と木樽の甲子園決戦:

« 夏の甲子園 後は宮城県だけ | トップページ | 惜しくも準決勝で負ける »

2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

ブログパーツ,com

鉄道写真館

  • 0604081
    撮り鉄と乗り鉄の写真館へようこそ!

掛川花鳥園

  • 2
    掛川花鳥園 2006年4月4日快晴
無料ブログはココログ