種樹の活躍が始まります。
文久3年2月5日 幕府、学問所奉行本多正訥「伯耆守・田中藩主」・同秋月種樹「右京亮・高鍋藩世子」・儒役林昇「大学頭」・大目付松平正之「対馬守」・勘定奉行竹内保徳「下野守」等に、学制更張・小学校建設用掛を命ず。とあります。
文久3年9月28日 高鍋藩世子,右京亮,若年寄格,(若年寄 老中に次ぐ重職で、旗本および老中支配以外の諸役人を統轄。小禄の譜代大名の中から通常数名が任ぜられた。少老。)学問所奉行、将軍家茂の侍読(天皇・東宮に仕え、学問を教授する学者。また、その職。)に進む。
12月家茂再度の上洛に先行し軍艦にて種樹は兵庫に上陸。
12月13日 築地水門から小船に乗って品川沖の軍艦に移乗(午後5時)
14日 解纜(午前10時)浦賀碇泊(午後2時)
15日 午前7時出港都合よく終夜航海。
16日 兵庫着(午後3時)この間種樹は船酔いもせず、上機嫌であった。この日夕刻上陸、割付の本陣肥前屋に止宿
17日 将軍上陸地点となる兵庫の海岸検分の予定が雨のため中止。
18日 検分終わる。
19日 午前7時供揃い馬にて出立、西ノ宮を経て大阪屋敷到着。
20日 大阪城に登城して城代に挨拶 。家茂の宿所となる城中の検分を済まして暮方屋敷に帰った。このときの供は堤團之進と水筑小一郎。
このときの軍艦は何だったんだろうか。誰が動かしたの?
この後将軍家茂が上洛、艦翔鶴丸で品川出航、勝とともに坂本龍馬従航している。
将軍家茂は大阪城に入るのが、正月6日、家茂を迎えた種樹はこれに随伴して10日に京都に入り、下立買千本通西へ入ル松巌院禅寺を旅館とします。『京都時代MAP幕末維新編』を見たがよくわからない。当時の高鍋藩邸は西本 願寺の西側、壬生川花屋町南東付近になっています。2月には孝明天皇に拝謁 し、天盃を拜戴する。3月、御所に於て舞楽拝謁、酒饌を戴く。5月家茂帰東暇乞参内に随伴し、再度拝謁、労を賞して白布5反、扇子一箱を賜る。5月学問所奉行兼若年寄格を辞し、次で侍読をも辞す。9月上洛中の精勤を賞して家茂より太刀一振りを授けられる。
難しく書かれていますが、幕府の要職にありながら、文部科学大臣も兼ねながら、将軍さまの家庭教師をしているんですね。いつもは麻布の江戸屋敷に住んでいるのに単身赴任で洛中に来ていて、家茂の相手をしているんでしょうね。将軍様に頑張ってくれてありがとうと、御褒美をたくさん戴いた。ということかな!!!
これだけなのに大変だった。こういういつも読み慣れない文章は難しいですね。
参考史料・文献 東大維新史料綱要データベース
日向文庫 秋月種茂と秋月種樹
別冊歴史読本 坂本龍馬と沖田総司
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