« 2006年8月 | トップページ | 2006年10月 »

純情きらりに涙する!!!

 『純情きらり』の最終回。桜子はやはり死んでしまったか。岡崎が舞台になったドラマ、観光客も増えたそうだ。岡崎城から八丁離れたところにあるから八丁味噌。一見の価値はあります。味噌樽の上の石また石、見事に積んであります。試食もおいしい。いつか行った時は味噌おでんだった。味噌が使われている商品もお薦めです。味噌キャラメルとかetc・etc

 桜子役の宮﨑あおい よかった。揺れる心をしっかり伝えてくれた。揺れるけれどその時その時は真剣というか、どの人にも心は伝わっていた。心から受け止めてもらっていたし。テレビ小説で心が揺れ動く主人公ははじめてとのこと。揺れるのが人間でしょうね。その後の対応は置いといても。

お孫ちゃん!!(ともだちの)

忙しい一日でした。

10時かBuroti らビーズ手芸に出かけ、蝶のブローチを作る。今日は簡単ですって言われたが それがどういう訳だか間違える。そう、相変わらず先生曰くどうしてこんなところで間違える?って。日本語はむずい。それでもどうにか手をとってもらいながら予定の時間に出来上がる。

 次ぎの予定は1時からのランチと友達のお孫さんに会いに行くこと。お孫ちゃんのパパは息子の同級生なので、休みになった息子と一緒に行くんだが、用意が出来ていない。都合よく、相手が30分遅れると連絡があったので一安心。ランチのあと病院へ向かう。5年前に自分が子宮筋腫で入院した病院です。表向き何も変わっていないので時間の経過を感じない。担当だった部長先生が見えないことくらいかな。窓から見える景色も変わっていない。通過した新幹線が変わっていたくらいか。

 お孫ちゃんに対面します。えーっ!!!こんなに小さかったっけ。おまけに軽く感じられた。babyを抱っこするのは何年ぶりか。感触もこころもとない。なんというのかなちょっとHayato1 重さを感じないというか。よく眠る赤ちゃんらしく今日も眠っている。抱こうがおしゃべりしていても、安心しきって眠っている。時折動いたり、伸びをしてるだけ。指の長いきれいな手・・・。猫に例えて悪いが、グレムリンより軽い。グレムリンは3.1キロ、筋肉のかたまりなのでほんと感触が違います。赤ちゃんって、可愛い。元気で育ちますように!!帰り際よそのbabyも見ていく。女の子はピンクの男の子はブルーの産着です。息子曰く、顔の違いがわからんと。顔も表情も違うのに!産婦人科って病院の中で唯一活気があります。お見舞いも楽しい。

名古屋港水族館

運転免許証の書き換えに港署に行く。空いていたのですぐに終わった。郵便で送ってもらうようにする。ペーパードライバーなので身分証代わりに大事にしている。優良ドライバー(?)です。以前は講習はなかったけれど、今回は別室が新しく作ってありそこでビデオだか、DVDだかが流れていて、受けないと免許証が受け取れない。愛知県は交通事故ワースト1だから、あらゆる手段で事故を減らして欲しいものです。

 03384すぐ横にある名古屋港水03334族館の、シャチのジャンプが見たくって立ち寄る。水族館だけ で2000円です。ポートビル・南極観測船ふじを見ると2400円?くらいかな。 中々いい水族館だと思います。大阪の海遊館も中央の大きな水槽でジンベイザメの海ちゃんと遊ちゃんが泳いでいて雄大でよかったけれど・・・。

 和歌山から連れてきているシャチのクーちゃん(メス)はいるかのお友達と一緒にやってきました。いるかに比べると。賢いんですがトレーニングをやりたがらない時があるそうです。ここでは、いるかショー・シャチのショーとは言っていません。何故でしょうね。シャチのクーの芸がまだ出来上がってないからかな。トレーニングと言ってます。

0336703339  まずはいるかのトレーニングから。お隣に若いママさんがお子さん二人を連れて観戦中。一人で男の子二人の面倒を見るのは大変です。まだひとつになってないこどもは人なつっこくて、すぐに仲良しになってしまいました。写真が撮りたいので中々相手してあげれなかったけど。記念に写真を撮ってあげました。

033750337903371  いるかは可愛いです。それにくらべるとシャチはダイナミックに泳いだりジャンプします。ジャンプのあとの跳ねた水の量も凄いですよ。シャチのおじさん合羽を着ています。それでも濡れるようだし・・。楽しいトレーニングでした。終わってからも興奮を収めるためか泳いだりファンサービスに余念がありません。動画を撮りましたがまたHPで紹介します。また、お越しください。

MIYAZAKI 庄内との苦戦!!

明治元年8月 庄内との決戦

 西郷は江戸城受け取りのあと鹿児島にいたが、越後の情況を憂慮し薩摩の汽船「春日丸」に乗って8月11日太夫浜(高鍋藩等の上陸地)に上陸し新潟に入り、山縣有朋に庄内攻略の必要を説いた。庄内藩は幕府の譜代ですが精強で、奥羽にあって唯一の勤王藩だった北隣の秋田藩を散々に打ち破ったため、庄内藩の処分は緊急時だったんですね。岩倉具視も山縣に書を送って、『寸刻を許さず出兵して秋田藩の急を救って貰いたい』と懇請しています。西郷の説得に北征軍が組織され、高鍋藩も新潟を出発して8月12日奥羽国境近くの中継(なかつぎ)に到着します。

 先に来ていた岩国、福知山の兵に変わって元気いっぱいの高鍋兵は大鳥奇襲を提言し26日に実行しました。暁6時から奇襲ははじまり、午後5時に帰着した。大鳥は庄内城が」陥落した場合の藩主の隠れ場所であったから、必ず報復にでることは想定できたので岩国、福知山兵は突撃に出るべきであったが、チャンスを逸したために高鍋兵は猛攻撃を受けました。 
2007年1月13日に官軍御宿中継住人さんから、大島ではなく大鳥ですとコメントいただきました。早速調べなおしましたところ、大鳥だとわかりました。ありがとうございました。訂正しました。訂正前に読んでくださった方失礼しました。
この大鳥奇襲は重要な事柄です。両軍にとって・・・。

雷(いかづち)村の死闘

 28日、敵は高鍋兵に対し猛攻撃をかけたので、高鍋兵は死傷者が続出しました。戦死者は十数人に達します。不明の者を探しにでかけ、小隊長福崎良一(28歳)が割腹しているのを発見します。精強を誇った庄内兵との戦闘はまさに死闘で悽惨を極めたんです。一旦中継に引き上げざるを得なかったと。

関川進撃

 9月9日参謀会議が開かれ、雷口山熊田口を抑え、その後庄内の要衝関川を攻略し敵の背後を遮断する作戦に出ることになります。10日から行動を起こすことになり、兵隊一Tizuyzmzgata 人に弾丸100発を胴乱に詰めそのほかに背負い、外に5千発を人夫に背負わせ、兵糧一度分を腰に付け、パン一度分同じ。さらに二食分を俵に詰めて人夫に背負わせ、草履二足を腰に付け、外に用意の分を人夫に持たせ、夜8時高鍋兵が先鋒で出発しました。とっても重そうだけど、何キロくらいの荷物を持ったんでしょうか。11日関川に到着し、16日は庄内領地に一里入る。敵の越後方面作戦の根拠地であるから戦闘は激烈を極めます。

参考資料 日向文庫 秋月種茂と秋月種樹

MIYAZAKI 種樹・北越出兵

明治元年6月13日 高鍋藩世子秋月種樹「右京亮・弁事」藩士岩村虎雄を米沢に遣わし、米沢藩主上杉齊憲「弾正大弼」父子に帰順入覲を勧告す。「虎雄等、8月に至り米沢に達す。」

 種樹は足痛のため直接出向いてはいません。重臣を差し出し候と願いを出します。すべての場合藩主自ら陣頭に立つことはないんで許されます。代わりに武藤東四郎・手塚賢太郎の名前があります。時の情勢が刻々と変わっていく中、薩摩藩士、佐土原藩士とは別に北越出征の命を受けます。その時の命令文。

                    秋月右京亮 兵隊

右兵部卿宮越後エ出張ニ付、隋従スベク御沙汰候事。

六月十五日

                 軍務省

というのである。兵部卿宮というのは後の小松宮彰仁親王。官軍の進行の目標地は会津にあります。22日朝進発の命がくだります。高鍋の兵隊は種樹の激励を受け、先発の登板であったため真っ先に公家門から御所に入ります。総兵隊に対し、紫晨殿外庭で酒肴が下され、一死忠誠を誓い、天願を拜顔した。明治天皇は一軍の行進を南門にて叡覧あせらせられた。高鍋藩兵は祝砲のとどろくなかを先鋒となって三条橋を渡って東進した。いろいろ困難な目に遭いますが、一ヵ月後の20日に越後高田に到着します。このとき河合継之助は長岡城にいて鋒先鋭く味方の前線を動かしていた。兵部卿宮は衝背軍を組織し、海路から新潟を攻略をすることになり、高鍋藩兵も参加することになります。翌日直江津から筑前の汽船大鵬丸に乗船して兵部卿宮の本営のある柏崎に向かった。23日大鵬丸に乗り、25日薩長及び高鍋藩兵は端舟を以って太夫浜に上陸し途中庄内藩の重臣を斃し、戦わずして松ヶ崎を陥れた。いよいよ新潟に向かいます。29日薩長高鍋の兵は齊應寺に集結し、拂暁の攻撃に移ります。ある時突然米沢兵が現れて、死傷者を出しますがひるまず戦ったと。それから暫く苦戦しますが斃した敵数人の中に米沢の総督色部長門の遺体があり、首は切り取られていた。色部長門は奥羽連盟に於ける米沢藩の首謀者で河井継之助等と並ぶ人物であった。米沢藩では色部が他藩の手にかからなったことを喜んでいる(鷹山公山関係)ということであった。新潟攻略戦は高鍋藩兵の殊功の一つであった。長岡城は官軍の猛攻に逢って陥落し河井は銃丸に傷つき轉々として会津領に入り、遂に英雄的な生涯の幕を閉じた。西郷の意見は重きをなした。戦いはまだ続きます。

その間に秋月種樹にも変化があります。

明治元年6月15日 弁事秋月種樹を以って侍読を兼ねしむ。

明治元年7月23日 弁事秋月種樹を以って議政官下局議長を兼ねしめ、鍋島直紀を甲府城代と為す。

Dokudami 明治天皇の侍読を勤めます。秋月種樹は詩文や書画に造詣があり、多くの書画を現代に伝えている。高鍋にも残っています。

参考史料・文献  東大維新史料綱要データベース

           日向文庫 秋月種茂と秋月種樹

たこやき龍馬亭!!!

いい天気になりました。もうじき10月ですね。

 高校生のドラフトの日です。駒大苫小牧の田中投手は楽天に、愛工大名電の堂上選手は中日が交渉権を獲得しました。ヤクルトの古田監督も中々いい顔でしたから、いい選手の交渉権が取れたんでしょうね。みんなの夢が叶うといいですが・・・。

Ryoumatakoyaki 屋台のたこ焼き屋さんがスーパーの前で営業中。女性がお二人でやってみえます。名 前が「たこやき龍馬亭」って言うんです。商品名が龍馬モダン焼きとかね。絶対龍馬ファンに違いないと思いました。誰が見たってそうですね。お二人とも龍馬ファンでした。生き方が好きとおっしゃいました。司馬龍馬ファンのような気はしましたが、嬉しい限りです。どうぞ、頑張ってくださいね。

 Higannbana_1公園は今秋の花Kosumosuでいっぱいです。10年くらい前に植えられた彼岸花と、コスモスとが満開でした。相変わらず、おじさんたちが集まってみえます。マルチーズのりょうちゃんとダルメシアンのエルメスもいっしょです。りょうちゃんはおばあさん犬です。歯がありませんが、噛み付くそうです。痛くはないそうですが・・・。

  毎月、会報を届けてくださるお方が最近みえません。代ってご主人が会報を届けてくださいます。どうされたのかなって思っていました・・・。ご近所のTさんに伺うと、どうも、胆管に悪いものが出来たようです。入院治療は終わって、通院治療に変わられたようです。Tさんがお聞きになったところ、病名は知って見えるようです。「同じ部屋の人がみんな抗がん剤治療をしてんだもん。」っておっしゃったそうです。Tさん曰く、「とっても、サバサバしてみえるよ、病気は治るわぁ。」って、そうであって欲しいです。

 我が家の庭にKobanorantanaHototogisu咲いている花も見てください。Sennitikou 小葉ノランタナ・ほととぎす(桃源)・るりまつり・千日紅です。ねこだってかわいいでしょう。

SukuoyakoRurimaturiNeko   

種樹 明治新政府の高官に!

明治元年1月5日 秋月種殷に命し、其子種樹をして速に上京せしめ、又、大原重徳の衛兵を出さしむ。「秋月種殷家記」

明治元年2月10日 秋月種殷、疾を謝し、其子種樹をして代りて京に至らしむ。「秋月種殷家記」

明治元年2月15日 秋月種樹を以って参与と為す。

明治元年2月20日 議定大徳寺実則をして内国事務局督を兼ね、同松平慶永をして同輔兼ね、参与岩倉具綱・同秋月種樹をして同権輔を兼ね、-後略-

明治元年5月25日 秋月種樹に命し、兵を率いて江戸に赴かしむ、種樹疾を以って辞し、老臣をして代り往かしめんと請ふ、之を聴す。

鳥羽伏見の戦火まだ消えぬ正月5日種殷に対し、

種樹ヲ速カニ上京セシメ、大原重徳ノ衛兵ヲ出スベシ 「復古記」

との勅令が下った。種樹が江戸から入洛したのは2月10日であった。江戸を発するに先立って、上野寛永寺に謹慎中の前の将軍慶喜に暇乞いを告げたが、その時慶喜は特に種樹を招いて懇に『臣の他意なきを奏せられたし』と衷情を訴え、種樹も覚えず涙を落したという。

種樹は入洛5日目に次の辞令を受けた。  

  秋月右京亮

 參與職仰出サレ候事

   慶応四年二月

  総裁朱印

Sinseihu3  秋月種樹は凄いですね。総裁、議定に次ぐ要職なんですって。徳川幕府が倒れて、摂政、関白、征夷大将軍等の天皇親政に反する顕職 は一切廃止して、慶応3年12月に新しく制定されたもの。 写真はクリックすると大きくなります。

大久保利通は権輔の下におかれた判事になる。皆傑れた人物であり、小藩の世子にして此の位置は、他の顔ぶれと見合わせて、種樹が一流の人材であったことが知られます。ほんとに凄い人です。きっと人情も厚く、世情を見る目も持ち合わせていたんでしょうね。                                                                                         

 西郷南州と勝海舟の直接談判により、江戸は平和裏に収められたが、彰義隊の上野山内の抗戦から、禍乱は関東・東北・北越と拡がっていった。5月になると高鍋藩にも、薩摩藩・佐土原藩と同一行動を取るように命がくだった。が、秋月種樹はこのころ足通の為悩んでいたので代りの人を出すことになり許可された。5月27日にあらためて、北越出征を命じられた。

参考史料・文献  東大維新史料綱要データベース

           日向文庫 秋月種茂と秋月種樹

MIYAZAKI 種樹 幕府要職断わる!!!

 慶応3年6月21日 幕府、高鍋藩世子秋月種樹「右京亮」を若年寄と為し、国内事務取扱を命じ、足利藩主戸田忠行「長門守」を陸軍奉行並と為す。

 慶応3年12月13日 久留島通靖「伊予守〇森藩主、食封一万二千五百石」、京に至り、其赴召遅緩を謝す、秋月種殷「長門守〇高鍋藩主、食封二万七千石」、疾あり、其子種樹「右京亮」をして代りて京に至らしめんと請ひ、「秋月種殷家記」、一柳末徳、再ひ上京遅延を謝す。「一柳末徳家記」

慶応3年12月25日 旧幕府、若年寄秋月種樹の請を許して、その職を罷む。「秋月種殷家記」

 

 この間のことは日向文庫 『秋月種茂と秋月種樹』が詳しい。当時の幕府は長洲征伐に失敗して、将軍Karouyasiki家茂も前年に薨じ、頽勢既に返す由もなかった。高鍋藩論も勤皇に定まった後の事で、藩内にもその就職を非とする声が高かった。種樹は松平春嶽と往復書簡を交わすほど時の情勢を把握していたわけだから、こんな話は迷惑でしかなかったのである。種樹は病気と称して旧幕府の命に従わなかった。これに対し旧幕府もしばしば出仕を促し、なお聞かざるに於て遂に医師を遣わし診断せしめるとまで強要にするにいたった。

旧幕府の劫迫を憤り、ひそかに薩人と謀って種樹を薩摩藩船、鳳翔丸に託して江戸を脱出せしKuraめんとした。12月23日に江戸城二の丸の炎上があり、薩摩藩邸に潜伏の浪士と伝えたものがあって、これに激昂した旧幕府の新徴組、陸軍歩兵、庄内藩兵等は25日に薩摩藩邸焼討を敢行した。このとき見つかった一束の文書が高鍋藩と薩摩藩の往復書簡で有った為に、麻布の高鍋藩邸も焼討 にされようとした。鳳翔丸は軍艦回天号の砲撃を受け、大破しなが らも辛くも逃れて神戸に向かった。江戸市中では専ら鳳翔丸の撃沈説が行われたと。これを聞いて近親の仙石侯(政固)は種樹の無事を喜びと共に、一刻もはやく登城して幕府に謝するがよいと勧説した。種樹も厚意に感謝し登城し、幕府の疑念も自然に解け、若年寄辞任の問題も円満に解決した。この日は薩摩藩邸焼討の翌日、鳥羽伏見の戦い より一週間前の切迫した日でした。

 高鍋藩も必死で生き残る道を模索してるんですね。種茂、種樹、頭が下がります。新政府三職のメンバーに参与として秋月種樹の名前が見えます。坂本龍馬も新政府役員の人選を考えますが種樹を知っていたんでしょうかね。 写真は家老黒水家屋敷と蔵

明日はテニスの日

 9月23日は日本全国テニスの日です。鳴海教室もお休みです。全国のイベントとして、13時から一斉にボレーボレー大会が開かれるとか・・・。私は参加しませんが・・・。

 21日はテニスの日でした。教室に参加した日です。振替の人が4人、合計6人。もしか振替の人が居らんかったら二人だけだったかな・・・。空恐ろしい。二人だったらずっとコートの中、休憩も怪しかったかも・・・・。おかげさまで理想的な6人です。

 びっちり、走らされたし最後はクタクタになりました。練習試合は3つに分かれます。今日は強いとこはあくまで強かった。相手チームがいきなり2連勝、優勝です。あとはね、ドべを決める試合です。と言いながら上手くは行きません。辛うじて2勝です。

 スコートの似合う女性がひとり。お若いんだろう。20代後半かなってところ。コーチも親切です。 (^^♪

★☆ 青春18きっぷ ☆★

Kippu  5回使える青春18きっぷ。JRの路線図に色を付けるとあっちこっちと今回は楽しい。いつもなら出発駅はひとつだけなのだが今度ばかりは違っている。

 7月22日 京都 帰りに大高へ 朝早い「現地見て歩く」の講座に出席するのに新幹線で出かけ、帰りはのんびりと帰ってくる。

 7月28日 大高 京都へ つい先ごろのことなのに覚えていない。(笑) ps 思い出しました。「基礎から学ぶ歴史」の講座を受ける

 8月11日 大高 福井へ これは遠かったというか時間がかかった。10月から敦賀まで快速が走るようになるので楽しみ。時間短縮ができる。龍馬が最後に三岡に会った11月2日に福井に行けたら・・・。最高!青春18きっぷは使えないが・・。

 8月20日 大高 神戸へ 神戸海軍操練所を訪ねて、メリケン波止場など。

 9月10日Higanbana 高鍋 宮崎空港へ 父親に会いに行ったあとで空港まで。利用できる最後の日。

 今度は12月から1月、雪の積もる京都の街に出かけたい。 写真はクリックすると大きくなります。

MIYAZAKI 種樹と松平春嶽

 12月家茂再度の上洛に先行し軍艦にて種樹は兵庫に上陸、大阪藩邸に入るんだが、この頃の勝海舟の記録がないかと『氷川清話』を開く。勝の直接の言葉ではないが、注意書きにこの頃の勝の行動がかいてある。

京都寺町の難 -略- 注 将軍家茂がはじめて上洛したのは、陸路で、文久3年3月帰京、文久2年閏8月に軍艦奉行並に昇進していた勝は、文久2年末から3年にかけて、幕府要人を海路で上方に運ぶ仕事に従って江戸・大阪間を何度も往復、また京都にも足をのばしていた。 -略- ( あとの略は土州岡田以蔵に命を助けられた時の話。)

 種樹は勝海舟と同じ軍艦に乗って航海した可能性は高いと思えてきた。当時の幕府の軍艦は翔鶴丸・朝陽丸・千秋丸・第一長崎丸・播龍丸の5艘。家茂は翔鶴丸で上洛したから当時勝は翔鶴丸によく乗ってたのじゃないかなぁ。としたら・・・。記録はないが・・・。

 元治元年5月28日、学問所奉行を免じ、侍講と為す。

 元治元年7月6日、前福井藩主松平慶永「大蔵大輔」書を若年寄秋月種樹「右京亮・高鍋藩世子」に寄せ、老中板倉勝静等黜陟の事情を問ふ。尋で「二十八日」種樹、之に復し、幕府及水戸藩の情勢を告ぐ。

 元治元年8月7日幕府、高鍋藩世子秋月種樹「右京亮」の奥用掛を免ず

 慶応元年2月12日高鍋藩世子秋月種樹「右京亮」書を前福井藩主松平慶永に寄せ、幕府の非政を難じ、慶永の起つて匡輔せんことを望む。

 慶応元年3月24日前福井藩主松平慶永、書を高鍋藩世子秋月種樹「右京亮」に寄せ、老中本荘宗秀・同阿部正外参内の事情等を報ず。尋で「四月八日」種樹、之に答ふ。

 慶応元年5月是月高鍋藩世子秋月種樹「右京亮」・前福井藩主松平慶永「大蔵大輔」、互に書を往復し、時事に関して意見を交換す。

 慶応元年8月24日前福井藩主松平慶永「大蔵大輔」書を高鍋藩世子秋月種樹「右京亮」復し、唐津藩世子小笠原長行「壱岐守」の老中復職及萩藩支族大坂召致に関する情勢を告ぐ。尋で「26日」慶永、熊本藩主弟長岡良之助に報ずる所、亦同じ。

 慶応元年10月13日高鍋藩世子秋月種樹「右京亮」書を前福井藩主松平慶永に寄せ、条約勅許に関する幕府の態度を難じ、上京して公武周旋せんことを求む。尋で「晦日」慶永、書を復して上京中止の事情を告ぐ。

 慶応元年11月18日高鍋藩世子秋月種樹「左京亮」書を前福井藩主松平慶永「大蔵大輔」に寄せ、京坂江戸の政情及鹿児島藩士等の動静を報ず。

  維新史綱要データGokokujinjyaベースの資料ですが、記録に残るだけでこの情報交換はどう見ればいいのか、多いのか少ないのか。史料を見つけれないのだが、このとき種樹はまだ、若年寄の立場なのかな。もう一度調べなおさなければ・・・。若年寄は元治元年5月に辞したという別の記録もあるが。

写真は高鍋城跡地に建つ高鍋護国神社の碑

参考史料・文献  東大維新史料綱要データベース

           日向文庫 秋月種茂と秋月種樹

           氷川清話 勝海舟

MIYAZAKI 種樹 幕府要職!!

 種樹の活躍が始まります。

文久3年2月5日 幕府、学問所奉行本多正訥「伯耆守・田中藩主」・同秋月種樹「右京亮・高鍋藩世子」・儒役林昇「大学頭」・大目付松平正之「対馬守」・勘定奉行竹内保徳「下野守」等に、学制更張・小学校建設用掛を命ず。とあります。

文久3年9月28日 高鍋藩世子,右京亮,若年寄格,(若年寄 老中に次ぐ重職で、旗本および老中支配以外の諸役人を統轄。小禄の譜代大名の中から通常数名が任ぜられた。少老。)学問所奉行、将軍家茂の侍読(天皇・東宮に仕え、学問を教授する学者。また、その職。)に進む。

 12月家茂再度の上洛に先行し軍艦にて種樹は兵庫に上陸。

12月13日 築地水門から小船に乗って品川沖の軍艦に移乗(午後5時)

   14日 解纜(午前10時)浦賀碇泊(午後2時)

   15日 午前7時出港都合よく終夜航海。

   16日 兵庫着(午後3時)この間種樹は船酔いもせず、上機嫌であった。この日夕刻上陸、割付の本陣肥前屋に止宿

   17日 将軍上陸地点となる兵庫の海岸検分の予定が雨のため中止。

   18日 検分終わる。

   19日 午前7時供揃い馬にて出立、西ノ宮を経て大阪屋敷到着。

   20日 大阪城に登城して城代に挨拶 。家茂の宿所となる城中の検分を済まして暮方屋敷に帰った。このときの供は堤團之進と水筑小一郎。

このときの軍艦は何だったんだろうか。誰が動かしたの?

この後将軍家茂が上洛、艦翔鶴丸で品川出航、勝とともに坂本龍馬従航している。  

2_2将軍家茂は大阪城に入るのが、正月6日、家茂を迎えた種樹はこれに随伴して10日に京都に入り、下立買千本通西へ入ル松巌院禅寺を旅館とします。『京都時代MAP幕末維新編』を見たがよくわからない。当時の高鍋藩邸は西本 願寺の西側、壬生川花屋町南東付近になっています。2月には孝明天皇に拝謁 し、天盃を拜戴する。3月、御所に於て舞楽拝謁、酒饌を戴く。5月家茂帰東暇乞参内に随伴し、再度拝謁、労を賞して白布5反、扇子一箱を賜る。5月学問所奉行兼若年寄格を辞し、次で侍読をも辞す。9月上洛中の精勤を賞して家茂より太刀一振りを授けられる。

 難しく書かれていますが、幕府の要職にありながら、文部科学大臣も兼ねながら、将軍さまの家庭教師をしているんですね。いつもは麻布の江戸屋敷に住んでいるのに単身赴任で洛中に来ていて、家茂の相手をしているんでしょうね。将軍様に頑張ってくれてありがとうと、御褒美をたくさん戴いた。ということかな!!!

 これだけなのに大変だった。こういういつも読み慣れない文章は難しいですね。

参考史料・文献  東大維新史料綱要データベース

           日向文庫 秋月種茂と秋月種樹

           別冊歴史読本 坂本龍馬と沖田総司 

MIYAZAKI 秋月種樹(たねたつ)

 福井に龍馬の足跡を訪ねたことがあったその時、福井市立郷土歴史博物館に立ち寄り、『松平春嶽をめぐる人々』のコーナーに秋月種樹の写真を見つけた。びっくり、種樹は高鍋藩主の弟、部屋住みと呼ばれる立場にありました。何の縁で親しくなったんだろうか色々と想像を膨らませていました。

 今回の帰省は直接秋月家の歴史に触れましたから史料を集めることからと思いました。ネット上の古本屋に高鍋藩種樹の本がないか探したらあったんです。鹿児島の古書店に。早速注文、すぐ現物が届きました。なんと便利な世の中でしょう。楽しい限り!!

 Tanetatu 『日向文庫 9 秋月種茂と秋月種樹』は印刷が昭和29年4月10日、昭和29年4月15日発行になっています。当時200圓〒24圓となっています。が手元の本は昭和57年7月20日に復刻されたもので非売品になっている珍しいもの。武藤麒一・安田尚義の共著になっています。どんな人が書かれたのか知りたいですがあとで・・。種茂もゆっくり見るとして、種樹~読み始める。凄い勉強家です。雅号からではありますが「秋月楽山公子」の名が高かったとあります。

 文久二年五月、孝明天皇は将軍家茂に幕政の改革を命じます。その結果家茂は松平春嶽を総裁として数々の幕政改革を行います。当時林が統括していた昇平坂学問所の上に学問奉行所を置くことにました。文久二年11月14日、種樹は、学問奉行になったのです。今で言えば、文部化学大臣?春嶽との接点も出来ました。

 調べているうちにもっと知りたくなって、東京大学維新史料データベースを初めて見に行きました。もちろんネット上でね。ほんとは本物を見たい気はするがちょっと時間がないんで・・・。そのなかに見つけました。松平春嶽と種樹が書を交わしたり、時の情勢を聞いたりしているんです。親しい付き合いをしているんですね。高鍋藩の江戸屋敷は、元麻布2にありました。

 種樹は家茂や明治天皇の持読も勤めますがまた、次回に。

山本昌 おめでとう!優勝も近い!!

 中日ドラゴンズの山本昌、素晴らしい。ずっとテレビの前に座っていたかったけど、夕飯の用意をしながらあっち行ったり、こっち来たりしながら応援していました。忙しかった。

 (高鍋の歴史のファンの方。古本屋で『秋月種茂と秋月種樹』を買ったらおもろいことが書いてあったので、明日書きます。期待して待っていてください。)

 思い起こせば、1988年アメリカ留学からいきなり呼び戻されてずっと立ち止まることなく活躍してきたような気がする。当時の星野監督は山本昌をあまり重要ししてなかったらしいが、どうしてどうして、帰国直後に1軍で5連勝し、リーグ優勝に貢献した。日本シリーズでも工藤公康と投げあったし。工藤は名古屋出身、おまけにこどもが当時通っていた小学校の先輩。一応気になる存在だった。

 このころかな、西武ライオンズに秋山幸二選手がいてファンだったんで、日本シリーズはどちらを応援しようか迷った。秋山はホームでバック転とかかなり格好よかったし、九州出身だった。変なもんだが、九州人だと応援したくなる。

 優勝争いをしている阪神タイガースとは相性がいいので、なんとか勝てればって思ってたけど凄い記録が出た。お立ち台でのインタビューも自分の記録よりも、阪神に勝ったことを先に喜んでいて気持ちがよかった。

 これで、優秀が決まったように思うのはちょっと、気が早いか?いつもはポーカーフェイスの落合監督も笑顔がこぼれていた。

 山本昌がラジコンが好きで、シーズンオフには、山山杯をやっているって聞いた。先日、我が家のラジコン好きが、ラジコン屋で山本昌を見かけたって。月曜日だったらしい。大きかったって・・・。我が家のラジコン好きも180cmあるんだけどなぁ。山本昌って、がっちりしてるし、調べたら184cmもある。やはり大きいか、自信もあるだろうから余計に大きいかも・・・。

 中日3─0阪神(セ・リーグ=16日)──プロ野球、中日ドラゴンズの山本昌(本名・山本昌広)投手(41)が16日、ナゴヤドームで行われた中日―阪神18回戦で、無安打無得点試合(ノーヒットノーラン)を達成した。

 41歳1か月での達成は、1995年8月に佐藤義則投手(オリックス、現日本ハムコーチ)が近鉄戦で達成した40歳11か月を上回る最年長記録。

 プロ野球では73人目(84度目)。セ・リーグ投手としては34人目(37度目)、中日の投手としては10人目。山本昌は四回に三塁手の失策で走者を一人許しただけで、28人の打者を無安打に抑えた。

(読売新聞) - 9月16日19時4分更新

MIYAZAKI 花いっぱいの高鍋湿原

 日本国中温泉ばやりですが、高鍋町にも温泉がでました。日本は火山国だからどこを掘っても温泉が出るってことを証明してるのかな。“めいりんの湯”です。その温泉の近くに高鍋湿原はあります。

Nobotan 比較的新しい湿原で、砂防ダムの土取場だったところの窪地に湧き水が溜って出来たもので40年くらいしかたっていません。植物が好きな人が大事に守って育てた湿原とか・・・。平成13年から一般開放されるようになりました。

Nanbanngiseru 子供の頃によ ~く見かけていた花が 咲いていて懐かしい。ここに来てはじめて近場で見かけなくなったことに気がついた植物もありました。今のように山にも、川にも人が入らなくなると、人の力で守られてきた自然は維持出来ませんからね。山は泣いているかも。

Tombo上の写真はヒメノボタン、堤防とかどこにでもまとまって咲いていました。ナンバンギセルは園芸種は持っていますが、野に咲いていると風情が違います。下はハッチョウトンボに似ているが、ベニトンボだと思います。ハッチョウトンボより、きれいな紅色でした。           

高鍋固有種のタカナベカイドウもありました。初めてみました。友達の伯父さんが近くに住んで見えて、盆栽の先生だというので訪ねてみました。まぁ、びっくり広い敷地に植木鉢がいくつ並んでいるんでしょうか。伯父さん、「数えたこつがね~ぇかいよ。なんぼあっとかわからんとじゃが・・・ぁ~」って。2000くらいあるんじゃないかと思いました。私の小さい庭にも300は有るんですから。≪るりびょうたん≫というのを見せてもらいましたが、実がついてません。瑠璃色のひょうたんって見てみたい気がしました。ときわ柿とかろうや柿とか鈴なりでした。やはり、先生実をつけるのも上手のようでした。

MIYAZAKI 高鍋町美術館はいいねぇ!

 宮崎滞在中に、高校の時の友人と高鍋町美術館で待ち合わせ。しばらくぶりでした。年を取ったこと以外はお互いに変わっていません。心は18歳にタイムスリップ!!!自然に会話が弾んで楽しい限りです。

Tanesige  美術館の前に、秋月種茂公上杉鷹山公兄弟の銅像があります。お二人とも穏やかな顔です。秋月種茂公はどんなお方なんでしょうか?

 父親の隠居に伴い家督を継ぎ、高鍋藩の改革に取り組んだ。改革に必要なものは人材であると、藩校明倫館を創設する。(高鍋高校の文武両道の精神はここから受け継がれている)素晴らしいところは、藩校に通える者を武士に限らず、百姓に対しても門戸を開いたこと。明治時代に活躍する多くの人材(石井十次など)がでている。財政再建政策を行い財政を再建したことでも知られている。いつまでたっても鷹山の兄では気の毒な気がする。立派な兄弟です。何故、この地にこうした人物が育つのか知りたい。もうちょっと見聞を広めたいと思う。***一部歴史資料館のパンフを引用***

 美術館もいいですよ。建物も落ち着いているし・・。大事なものを発見しました。やっとめぐり合えたといいますか、平原美夫先生の絵がかけて有りました。東北の漁村を描いたものです。穏やかな色調、穏やかな人々の顔。石井秀隣先生  (平原先生の教え子で野球部で頑張り、後に野球部の部長になる)の絵もありました。美術館に葉書が用意してあるかと思いましたが、残念なことにありませんでした。地元の芸術家を大事にして欲しいと思いました。

MIYAZAKI 空港 と 名物

Karakuritokei_2Miyazakikuukou      10日、宮崎空港の中の様子です。日曜日の7時過ぎということもあって、賑わっていました。名古屋だけではなく、ここにもカラクリ時計がありました。高千穂の神楽がモチーフなんでしょうか?いいものです。夕食を食べに来ている人もたくさん有るようです。冷汁定食860円をいただきました。宮崎の有名な食べ物の一つです。

 宮崎の名物を・・・。煙がいっぱいの焼き鳥、鶏肉南蛮、天然うなぎと言いたいけど、どうなんでしょうか?養殖も盛んですから天然物ではないでしょうね。川の周りに木や竹が覆い被さって、日が射さなくなっていますから、うなぎが取れるかな。今はシーズンではないけど、アップルマンゴー・日向夏かな・・。碧い海と青い空、緑がいっぱいっところかな!

上杉鷹山 コネタ

 上杉鷹山の話の2

上杉鷹山(うえすぎようざん)は、1751年7月20日、日向高鍋藩の江戸藩邸で、藩主秋月種美(あきづきたねよし)の次男として生まれました。歴史の教科書にも載らなかったこの偉大なる方は、数ある大名のなかで名君中の名君といわれました。養子として上杉家を継ぎ、若くして藩政改革に取り組み、藩の窮乏を救うことに成功したからである。

 9歳の時、鷹山は祖母にあたる瑞耀院(ずいよういん)の推薦によって、出羽米沢藩十五万石上杉重定の養子に内定した。それは、重定の正室に男子がなかったからであった。鷹山は、重定の正室が生んだ女子、幸姫(ゆきひめ)と将来結婚することを前提に、宝暦10年、正式に上杉家の養子となった。日向高鍋藩二万七千石の部屋住(へやずみ)の身が、十五万石の大名家を継ぐ立場となったのである。まさに逆玉!であるがこれは、単に彼に幸運があったからではなく、優秀な子であったという評判があったからこそだったのである。

高鍋藩の藩主の次男ですが、生まれてずっと江戸藩邸で暮らしていたので、一度も高鍋に帰ることはなかったようです。鷹山は米沢藩の財政再建に取り組み成功させますが、鷹山の兄もまた高鍋藩の財政再建に力を尽くしました。

 

上杉鷹山こぼれ話

 宮崎の我が実家のあるところは交通の便がとても悪~い田舎です。足がないのでタクシーで出かけました。運転手さんに高鍋の歴史について聞いたところ面白い話しをしてくれました。

 ジョン・F・ケネディは第35代アメリカ大統領ですが、 そのケネディが1961年、大統領就任直後に来日した時、空港で待ち構えていた記者団の中の1人の女性が、「日本人で尊敬する政治家は?」と訪ねると「YOZAN UESUGI」と答えたそうです。彼女はおろかプレスも誰かわからず唖然としてしまった。と。

 中学の時にケネディの伝記を読みましたが全然覚えていません。知らないことは頭に残らないってことかなぁ。今思えば残念です。

 童門冬二氏によると、ケネディ大統領は内村鑑三が書いた『代表的日本人』を読んで、上杉鷹山のことを知ったと考えられているということです。

 もうひとつ、ケネディの大統領就任演説明解かつ平易な英語で書かれていると今でも名文の1つに数えられているものだというこの名言。

 

  And so,my fellow Americans:ask not what your country can do for you - ask what you can do for your country.

Myfellow citizens of the world:ask not what America will do for you,but what together we can do for the freedom of man.

 アメリカ人の同士よ!国が君らに何をしてくれるかを問うのではなく国の為に何ができるかを考えてくれ。

 また全世界の同士よ!アメリカが君らに何をしてくれるかを問うのではなく人類の自由の為に共に何ができるかを考えてほしい!

これと同じような言葉を鷹山が残しているという。就任演説の200年も前の時代に。「Youzan 家人民の為に立ちたる君にて、君の為に立ちたる国家人民にあらず」と。まずもって国家人民1人1人が頑張って国を良くしていこうという精神を持つべきだ、と述べている。ケネディの師の1人は上杉鷹山であった というエピソードです。

初めての中部国際空港セントレア

 8日最終便で宮崎へ向かう。初めてセントレアを利用しました。名鉄電車が乗り入れてとDsc03068 ても便利です。搭乗するときは便利でした。広くっても時間的余裕がありますから・・・。それなりに楽しみました。夕飯は悩みましたが、まるは食堂のエビフライ定食をいただきました。1.380円でした。大きいエビです。

 飛行機って飛び立つ時が好きです。ワクワクします。ふわっと浮き上がる瞬間とか、グDsc03094 ングン上昇していく角度、スピードなんとも言えません。気持ちいいです。そうはいってもジェットコースターとか観覧車の高いところは嫌いです。

 着陸する時も好きですね。座席から前に飛び出しそうな感じとかね。宮崎空港はJR九州が乗り入れていますから、便利です。去年だったか「日本列島乗りつくDsc03108しの旅」で、関口さんが立った場所とか思ったりして楽しんでました。駅にはRED EXPRESS ホームライナーが止まっていましたが、先発は特急日向なので乗ります。久しぶり の実家でした。

ねこも予防注射

 ねこの伝染病がいくつかありますが、先日もyukiが脱走した時に病気をもらってきたようです。声が枯れて元気がなかった。おまけにその病気をgureにうつしたらしくgureだけは病院へ行きました。次の予防注射の時期が迫っていた時だったので、免疫が切れかけていたんでしょうと言われました。軽く済んでよかった。

 ねこを病院に連れて行くのは大変です。まず、車が嫌です。病院に着いたら中に入るのが嫌。待合室に外の動物がいるのが怖いのか大変です。怒るんです。gureは特にね!!。どんな大きな犬でも負けていません。唸っています。飼い主の方が怖くなります。相手が本気になったら負けそうですものね。

  Syanpu診察台も、先生もいやです。yukiは観念して大人しくなりますが、gureはそうはいきません。なんとか逃げ出そうといろいろ考えます。無駄な抵抗ですけど・・・。

 今日はいい子でいられるかな?5種混合の予防接種です。なんといっても大事な猫たちです。避けられる病気なら最善を尽くしたい。yukiは人間でいえばもう70歳を越えています。長生きして欲しいです。

テニスはサーブで決める!!!

 今月からテーマがサーブ&アプローチです。昨日から雨が降っていて湿度が凄く高い。それに加えて日が差してきて、温度も上がってきて今日もたくさん汗をかきました。ほんに暑~いです。

 いつものように体慣らしから。早々、今日は30歳の I さんがお休みです。振り変えの方もいれて6名。丁度いいかな。球出し、打ち合い、サーブと続きます。サーブはひねりを入れてつまり、スピンをかけるサーブの練習です。コーチいわく、「ようも、いやらしいとこに打てるねって。」どうゆうことって!!!。褒めてくれてんだよねって念を押して聞く。まったく、褒め上手なのかどうなのか。ってち~と悩んでいたら、次の練習でコーチのサーブが続けて2本も入らんのです。「ど!したの?」って聞いたらサーブを真似したら失敗だったって!!!真似したくなるようなサーブを打った覚えはないのになぁ。

 練習試合も中々楽しかったです。実力伯仲なのか勝ったり負けたり・・・。ガット張りキャンペーンをやってるってんで、お願いしました。去年の10月7日に張り替えているのでざっと、一年ぶりです。早く張り替えるように言われていたのに今日まで延ばしてしまいました。来週からは楽に打てるかな。ボールも新しくなりました。

沢木耕太郎の『凍』がノンフィクション賞に

講談社ノンフィクション賞に沢木耕太郎氏

 

 第28回講談社ノンフィクション賞が5日、沢木耕太郎氏の「凍(とう)」(新潮社)と田草川弘氏の「黒澤明VS.ハリウッド 『トラ・トラ・トラ!』その謎のすべて」(文芸春秋)に決まった。また、第22回講談社エッセイ賞は、野崎歓氏の「赤ちゃん教育」(青土社)と福田和也氏の「悪女の美食術」(講談社)が選ばれた。賞金は各100万円。贈呈式は10月23日午後6時から、東京・丸の内の東京会館で。 2006年9月6日朝日新聞より

 毎月1回朝日新聞夕刊に沢木耕太郎の『銀の森へ』が掲載される。映画の紹介です。相変わらずの文章の切れのよさは小気味いいものがあります。只、紹介された映画を見たことは一度もありません。カッコ付けの自分は人前で感情を出すのが嫌だから、哀しいもの、感動的なものはTVで放送されるまでは見ないってことです。面倒なのが一番ですが・・・。

 

 沢木の作品で一番好きなのは、『深夜特急』ですね。今にして思えば平和な中近東を、バスでヨーロッパまで行くというもの。インドでの滞在は物を考えさせてくれました。色々な土地での出会い、出来事面白いですねえ。刺激されて出かけた人は少なくないと思います。次は、古いですが『敗れざる者たち』負けた人ばかりを書いてあるのNtzsawakitouにタイトルは敗れざる者たちです。

 

 今回ノンフィクション賞をもらったのは『凍』で、ヒマラヤの高峰ギャチュンカン(7,952m)北壁に挑んだクライマー、山野井夫妻を描いてあるノンフィクションの作品です。読みたいんですけど、沢木の作品は難しいというか、研ぎ澄まされてきましたので、少し近寄りがたいかなって思ったり。

大好きな作家です。めげずに読みたいとは思いますが・・・。

博多の夜景は100万ドル?

『哀歌』 曽野綾子著を薦められて読んでいます。

彼女の作品は『塩狩峠』を読みました。『塩狩峠』は犠牲をテーマに書かれています。哀歌は文字通り哀しい歌なんでしょうか。宗教者でもある曽野綾子の言葉をどう受け止めるか。いい言葉が並んでいます。

 求めれば、叶えられない時に苦しくなる。それに何より、たとえ善意からであっても、相手に自ら改変することを求めてはならない。、と教えられている。相手はそのまま放置して、ただ徹底して自分が相手をかばえ。それだけがほんとうの愛だ、と知らされたからである。 『哀歌』曽野綾子著より

ちょっと分厚い2冊です。覚悟して読みましょうか!!!

九州の写真 

息子が鉄道写真を撮ってきました。本人は上手く取れたのが少ないと反省しきりですが記録としてはいいものがあります。なんといっても450枚くらいはあるんですから。見ごたえ充分です。夜景がいくつかあります。博多の街は小倉に比べれば人口が多いですから。夜の街はきれいだったようです。Img_4782Img_4757   Img_5102

 博多駅・博多港

 

真ん中は結婚式場

Img_4760_1

Img_4772_1

Img_4759

どこの様子か分かりませんが、綺麗です。中州はどこやろかって話しました。親子の会話は成立しましたが、アップする時にどこの何だっけと言うとね。息子の機嫌が悪くなったりします。彼は若いですから

Img_4737

Img_4762

Img_4778、覚わらんということ、忘れる

ってことが理解出来んらしいのです。

ホームページを更新

 HOBBYROOMをniftyのサイトに引っ越しました。

昨日からホームページを、あれこれ触っています。一度で上手くいけばいいんですがアップしなければ分からないこと、気に入らないことが起こります。困ったことです。今、アップしてありますがまだまだ考える余地があります。デザインも難しいものです。写真を羅列しただけって感じがします。

 今回欲張って作りました。サイトに2つのフレームページがあります。フレームからHOMEに戻る時に開いてあるページを残したくないんですがHOMEに戻るたびにページが増えていく。今日はもう、頭がごっちゃなんで、また訂正します。

公開してあるページを紹介します。

青春18きっぷの旅 京都伏見・醍醐寺・三千院・福井・さった峠。あとねこページを4ページ作りました。旅先ねことご近所ねこも作ってみたい。重くなるかな。

よかったら、寄っていってください。

鳥栖の写真の追加

 一年に一回だけ発売される貨物列車の時刻表があります。凄い綿密なダイヤです。電車の型式など詳細な情報が載っています。それを元に鉄道マニアは走ったり、乗ったりしながら追っかけます。今回は太平洋と空と列車を追いかけています。もうすぐ廃止になるかもしれないブルートレインと。MinamiTosu Tikuzen

  

 

去年の写真ですが、駅の表示板を・・。

今頃どこで撮っているのかな!

新幹線 + JR青春18きっぷ

 昨日から九州に出かけた息子。遊びすぎて時間通りにチェックインできなかったようだ。Mojiko ふ~んそんなに楽しんでんだ。と我が子ながら羨ましい!!!昨日は門司港ホテルに泊まったはず。去年も同じころにJR九州に 《乗鉄・撮鉄》 に出かけたがお土産の写真が300枚だった。今回はもっと張り切って出かけたのでお土産は500枚かな。見る方はマニアとまでは行かないけど、写真はとっても楽しみです。九州の電車たちは個性的です。色も形もね。それに、現地で出会う猫たち。のらでも飼い猫でも可愛いですよ。決まってボスはいますね。風格が備わってたりして・・・。

去年の写真を・・・。

Sonic2_1SonicSupesu                   

それでも暑いテニス

昨日のこと!

 テニスの練習日です。一回お盆休み、先週用事で休んだので半月ぶりのテニスです。大丈夫かな。バームは飲んできたけれど・・・。振替の人が入られて5名です。暑いですが風があります。8月最終日なので試合が中心です。

 Geka じゃんけんで順番を決めて、一人が休憩。負けたチームの人がじゃんけんして負けた人が交代します。セルフジャッジです。ちょっと面倒です。サービスの人がカウントします。実力伯仲とも思わないですが、休憩の人が順番になっています。面白い。10試合くらいやって最後の試合で勝ったチームが優勝です。

 全米テニスが始まりました。今大会限りで引退する36歳のアガシ調子いいようです。マリア・シャラポアも日本の杉山も三回戦進出です。シャラポアはウエアがおしゃれだとか・・・。いろんな意味で楽しみです。

« 2006年8月 | トップページ | 2006年10月 »

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            

ブログパーツ,com

鉄道写真館

  • 0604081
    撮り鉄と乗り鉄の写真館へようこそ!
無料ブログはココログ

掛川花鳥園

  • 2
    掛川花鳥園 2006年4月4日快晴