MIYAZAKI 種樹・北越出兵
明治元年6月13日 高鍋藩世子秋月種樹「右京亮・弁事」藩士岩村虎雄を米沢に遣わし、米沢藩主上杉齊憲「弾正大弼」父子に帰順入覲を勧告す。「虎雄等、8月に至り米沢に達す。」
種樹は足痛のため直接出向いてはいません。重臣を差し出し候と願いを出します。すべての場合藩主自ら陣頭に立つことはないんで許されます。代わりに武藤東四郎・手塚賢太郎の名前があります。時の情勢が刻々と変わっていく中、薩摩藩士、佐土原藩士とは別に北越出征の命を受けます。その時の命令文。
秋月右京亮 兵隊
右兵部卿宮越後エ出張ニ付、隋従スベク御沙汰候事。
六月十五日
軍務省
というのである。兵部卿宮というのは後の小松宮彰仁親王。官軍の進行の目標地は会津にあります。22日朝進発の命がくだります。高鍋の兵隊は種樹の激励を受け、先発の登板であったため真っ先に公家門から御所に入ります。総兵隊に対し、紫晨殿外庭で酒肴が下され、一死忠誠を誓い、天願を拜顔した。明治天皇は一軍の行進を南門にて叡覧あせらせられた。高鍋藩兵は祝砲のとどろくなかを先鋒となって三条橋を渡って東進した。いろいろ困難な目に遭いますが、一ヵ月後の20日に越後高田に到着します。このとき河合継之助は長岡城にいて鋒先鋭く味方の前線を動かしていた。兵部卿宮は衝背軍を組織し、海路から新潟を攻略をすることになり、高鍋藩兵も参加することになります。翌日直江津から筑前の汽船大鵬丸に乗船して兵部卿宮の本営のある柏崎に向かった。23日大鵬丸に乗り、25日薩長及び高鍋藩兵は端舟を以って太夫浜に上陸し途中庄内藩の重臣を斃し、戦わずして松ヶ崎を陥れた。いよいよ新潟に向かいます。29日薩長高鍋の兵は齊應寺に集結し、拂暁の攻撃に移ります。ある時突然米沢兵が現れて、死傷者を出しますがひるまず戦ったと。それから暫く苦戦しますが斃した敵数人の中に米沢の総督色部長門の遺体があり、首は切り取られていた。色部長門は奥羽連盟に於ける米沢藩の首謀者で河井継之助等と並ぶ人物であった。米沢藩では色部が他藩の手にかからなったことを喜んでいる(鷹山公山関係)ということであった。新潟攻略戦は高鍋藩兵の殊功の一つであった。長岡城は官軍の猛攻に逢って陥落し河井は銃丸に傷つき轉々として会津領に入り、遂に英雄的な生涯の幕を閉じた。西郷の意見は重きをなした。戦いはまだ続きます。
その間に秋月種樹にも変化があります。
明治元年6月15日 弁事秋月種樹を以って侍読を兼ねしむ。
明治元年7月23日 弁事秋月種樹を以って議政官下局議長を兼ねしめ、鍋島直紀を甲府城代と為す。
明治天皇の侍読を勤めます。秋月種樹は詩文や書画に造詣があり、多くの書画を現代に伝えている。高鍋にも残っています。
参考史料・文献 東大維新史料綱要データベース
日向文庫 秋月種茂と秋月種樹
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こんにちは、はじめまして。
高鍋藩といえば上杉鷹山を生んだ藩ですよね。北越出兵は司馬遼太郎の「峠」で河井継之助という人を知りました。しかし本格的な文書で歴史的資料を拝見し勉強になりました。
投稿: touyou | 2006年9月26日 (火) 23時03分
touyouさん
コメントありがとうございます。
高鍋藩と言えば、鷹山公ですね。ケネディも好きな人に上げてるそうですが・・・。
歴史も残酷ですよね。鷹山公も関係が深いですが、秋月種樹の兄種殷の継室は米沢藩上杉斉定の娘だったりするんですから。よくある話だとは思いますが。
投稿: よだきぼママ | 2006年9月27日 (水) 08時08分