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MIYAZAKI 庄内との苦戦!!

明治元年8月 庄内との決戦

 西郷は江戸城受け取りのあと鹿児島にいたが、越後の情況を憂慮し薩摩の汽船「春日丸」に乗って8月11日太夫浜(高鍋藩等の上陸地)に上陸し新潟に入り、山縣有朋に庄内攻略の必要を説いた。庄内藩は幕府の譜代ですが精強で、奥羽にあって唯一の勤王藩だった北隣の秋田藩を散々に打ち破ったため、庄内藩の処分は緊急時だったんですね。岩倉具視も山縣に書を送って、『寸刻を許さず出兵して秋田藩の急を救って貰いたい』と懇請しています。西郷の説得に北征軍が組織され、高鍋藩も新潟を出発して8月12日奥羽国境近くの中継(なかつぎ)に到着します。

 先に来ていた岩国、福知山の兵に変わって元気いっぱいの高鍋兵は大鳥奇襲を提言し26日に実行しました。暁6時から奇襲ははじまり、午後5時に帰着した。大鳥は庄内城が」陥落した場合の藩主の隠れ場所であったから、必ず報復にでることは想定できたので岩国、福知山兵は突撃に出るべきであったが、チャンスを逸したために高鍋兵は猛攻撃を受けました。 
2007年1月13日に官軍御宿中継住人さんから、大島ではなく大鳥ですとコメントいただきました。早速調べなおしましたところ、大鳥だとわかりました。ありがとうございました。訂正しました。訂正前に読んでくださった方失礼しました。
この大鳥奇襲は重要な事柄です。両軍にとって・・・。

雷(いかづち)村の死闘

 28日、敵は高鍋兵に対し猛攻撃をかけたので、高鍋兵は死傷者が続出しました。戦死者は十数人に達します。不明の者を探しにでかけ、小隊長福崎良一(28歳)が割腹しているのを発見します。精強を誇った庄内兵との戦闘はまさに死闘で悽惨を極めたんです。一旦中継に引き上げざるを得なかったと。

関川進撃

 9月9日参謀会議が開かれ、雷口山熊田口を抑え、その後庄内の要衝関川を攻略し敵の背後を遮断する作戦に出ることになります。10日から行動を起こすことになり、兵隊一Tizuyzmzgata 人に弾丸100発を胴乱に詰めそのほかに背負い、外に5千発を人夫に背負わせ、兵糧一度分を腰に付け、パン一度分同じ。さらに二食分を俵に詰めて人夫に背負わせ、草履二足を腰に付け、外に用意の分を人夫に持たせ、夜8時高鍋兵が先鋒で出発しました。とっても重そうだけど、何キロくらいの荷物を持ったんでしょうか。11日関川に到着し、16日は庄内領地に一里入る。敵の越後方面作戦の根拠地であるから戦闘は激烈を極めます。

参考資料 日向文庫 秋月種茂と秋月種樹

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