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東京帝国大学の誕生

明治2年10月22日に種樹は大学大監に進められた。

藩尾録』に東京便りとして報じられた内容。

 若殿様大学騒ぎの件につき、御不行き届きあらせられ、御伺い通り御謹慎仰せ蒙られ候処、十月五日勅使豊岡三位殿御出なされ(中略)御前の間に御通し申し、若殿様礼服にて御出座なされ候処「秋月小監謹慎免され候」と太政官よりの御書付御渡しなされ、御拝見の上御請け仰せ上げられ、即刻御供揃ひにて御参朝なされ候  

 大監になった種樹は決心を新たにして、合議の上大学の改革を行います。明治3年(1870)二月、「大学規則及び小学校規則」を発布し、大学は法、理、医、文の各科に分かち、皇漢学の分野を局限した。ここで従来争っていた国、漢学者は一致団結して洋学者と激しく抗争する。紛争は5月になり激甚を加え、遂に大学本校の皇漢教授などは書を別当松平春嶽に激しく難詰すると共に、これに大学生も呼応してわが国最初のストライキとなった。その中心人物の一人藤野正啓の手記。

 是ノ時、学生改革ノ議アリ、大小丞等南校ノ教官ト謀リ、洋法ニ習ヒ教則ヲ立テント欲ス。予等コレヲ非トシ、 大小丞楠田英世、小松彰ヲ斥ケント欲ス。別当春岳君、大監秋月種樹君、弁事田中不二磨(洋学ヲ管ス)丞(楠田等)ノ説ヲ容レル。-後略-

 事態を憂慮し、大監種樹また小監島義男と共に教官の説得と、生徒の説諭に努めたが事態好転の望みなく、温厚な慶永(春嶽)は責めを負うて辞表を提出した。種樹の責任は益々重くなります。困った種樹は遂に右大臣三条実美にも謀り、歴然たる処置に出ずるに決し、七月二日をもって

 「学制御改正ニ付、当分本校休止サレ候事」と示達し、大学本校(お茶の水、旧昌平学)を閉鎖してしまった。維新当初よりの皇漢学を以て教学の中心たらしめんとする運動は全く頓挫し、洋学研鑽を府たる大学南校、同東校が栄え、やがて合併して東京帝国大学となる。

 種樹は教育一本化を、置き土産として7月13日に大学大監も侍読もやめ閑地( 職務の少ないひまな地位・身分)につく。

あーぁびっくりしました。日本初のストライキですって。種樹お気の毒でした。何かを作り出す苦しみって大変なことです。種樹が一生懸命やていたことって東京大学に関わっていたんですね。凄い人が高鍋藩にいたことにあらためて感動しました。

種樹は官職を辞しますがゆっくりできるんでしょうか。

種樹はまだ38歳です。

参考書籍 安田尚義 高鍋藩史話 解説 石川正雄

参考史料 維新史料綱要データベース

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