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今でも、大活躍のラグビー部

スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校 出番待つ花園用ジャージー

 ラグビー 9

高鍋ラグビーの神様と言われた名将黒岩が32年間勤めた母校の教壇を去るのは1987年(昭62)。この間、高鍋が花園へコマを進めたのは7回。もちろん県内では最多記録である。まさに名将であった。今、黒岩は母校のすぐそばに建てた自宅で悠々自適の生活を送り、暇を見つけては選手たちの練習を手伝っている。

 さて、黒岩が去った後、高鍋が8回目の花園出場を果たすのは88年であった。当時のメンバーは次の通り。

【FW】山口(平成元卒)(同)林(同)木浦(同)押川(同)今村(同)田中(故人)飛高(同)堀口【HB】保坂(同)鈴木(同)【TB】黒木清(同)宇部(同)橋本(同)【FB】岩切(同)

 この大会は一回戦で岡谷工(長野)を16対13、二回戦はコザ(沖縄)11対6で連破したものの三回戦では強豪の相模台工に6対39で大敗した。その後は残念ながら高鍋のラグビー部の花園出場はない。

 高鍋には全国大会用のジャージーがある。九州大会まではグリーンと白のしま模様だが、花園用はこれにオレンジ色の線が入り、胸元に宮崎の県花であるハマユウのマークがつく。

 憧れの舞台で着てほしい、と78年にOB会などで作ったもので、いわば名門高鍋ラグビー部のステータスシンボル、そのジャージーは今、高鍋に大切に保管され、いつの日か再びやってくるだろう花園出場を待っている。

 今も高鍋ラグビーの成績は悪い方でない。しかし、中途半端な成績では周囲もそして先輩たちも満足しない。

 これは名門体育部の持った宿命でもあるのだが、選手たちがそうしたプレッシャーに勝って9度目の花園出場を果たすことを期待したい。(敬称略)

 ***その次に花園に出場するのは平成10年になる。今年までの成績をと書き始めたが今年は連続5回目の出場となり、長くなるので明日にでも・・・。今年の締めは紅白!!!

 来年もよろしくお願いします。q(*^O^*)p

よかった。高鍋!

 花園も寒いだろうなぁ。南国生まれの高鍋フィフティーン。よ~く頑張ってくれた。鍋高OGは嬉しい・・・。花園で正月・・・。

  高鍋15-5平工 ←クリックしてね。 

黒岩先生 転勤!

スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校 黒岩最後の全国は2回戦敗退

 ラグビー部 8

8回も花園にコマを進めた宮崎県高校ラグビー界の名門高鍋高校を、語るとき忘れてはならない人たちがいる。増田十郎もその一人で、高鍋ラグビー部を物心両面から支えてきたラグビー部のOB会の会長でもある。

 増田は宮崎県最大の建設会社増田工務店を経営する傍ら、増田グループ9社の総帥。増田は1956年(昭31)、高鍋を卒業すると千葉工大へ進んだ。高鍋在学中はハーフとして活躍、千葉工大に進学してからも、その俊足を生かしてチームの中心的存在だった。

 増田は現在も宮崎壮年ラグビークラブのメンバー。グループの総帥として多忙中、暇を見つけては、母校のグラウンドに姿を見せて後輩たちの練習に視線を走らせ、物質的にもバックアップしている。

 OB会事務局の金橋和英(昭35卒)も裏方として増田会長を補佐、高鍋ラグビーの伝統を守るため、献身的な努力を払ってきた。 

 こうしたOBたちに支えられて、高鍋の花園出場は続いたが、ラグビー部育ての親で名将として今も慕われている黒岩正春(昭26卒)の最後の花園は、84年だった。 

 当時のメンバーは次の通り。小山(昭60卒)薄田(同)福崎(同)斉藤(同)藤本(同久保(同)藤波(同)佐藤伸(同)大原(同)染山(同)椎葉(同)石川(同)永友義(同)増田(同)紅梅(同)。

 この大会、一回戦は九州勢同士の対決となって佐賀工を16-6で退けたものの、二回戦では、日川に9-32で大敗した。

 黒岩はこの年を最後に高鍋を去り、宮崎北へ移る。高鍋が次に花園出場を果たすのは88年であった。(敬称略)

 小学校の時の担任の増田先生。懐かしいですね。お元気でしょうか。
***ラグビー部7を抜かして8を書いてしまったので、ラグビー部7を追記しました。失礼しました。昨日、これ読んだって人は前日をもう一度読んで・・・お願い!

名古屋も雪・・・

Dsc04619  名古屋は夜明けころから雪が舞った。車の上は白くなった。寒い一日になりそう。彫刻家田中さんの28日の日記に高鍋住民のささやかな喜びが書いてあった。故郷を遠く離れても、思いは同じです。今井美樹の紅白出場と年末の花園。明日30日の高鍋の対戦相手は平工(福島)

 ネットって面白い。高鍋のキャプテンのインタビューが動画で見れる。ココをクリックして、右側の主将インタビューの動画再生から見る。

 スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校 通算8回の花園出場

 ラグビー部 7

 1981年(昭56)、ラグビー部史上初のベスト4に進出した高鍋フィフティーンの中から、4人がイングランド遠征メンバーに選ばれたのだ。FWの上杉(昭57卒)林田(同)染山(同)児玉(同)がその4人。

 同大に進んだ児玉と法大に進んだ林田はいずれも主力選手として活躍、大学ラグビー東西対抗戦でも二人は顔を合わせ、高鍋対決として注目された。

 この後高鍋は4回、通算8回花園に姿を見せるが、このベスト4が最高だ。

 5回目は翌82年。一回戦で岐阜工を22-0で破ったものの、二回戦では強豪の国学院久我山に0-47の大差で敗れた。

 当時、ラグビー部の育ての親黒岩に率いられた高鍋は、黄金時代をおう歌していた。5回目の花園出場を果たしたフィフティーンは次の通り。

 【FW】井上(昭59卒)宮本(昭58卒)東(昭59卒)税田【昭58卒】高木(同)河野裕(同)尾前(同)須川(同)【HB】高山(同)野津原(同)【FB】永友長(同)河野倫(同)佐藤(同)岸本(同)【FB】長友忠(同)

 次の年も高鍋ラグビー部は花園にコマを進めた。この大会も一回戦を突破したものの二回戦で敗退した。一回戦は福島の磐城を12-7、二回戦は強豪の秋田工に3-28で大敗した。

 このフィフティーンの中から東が、ニュージーランド遠征メンバーに選ばれている。そして、翌84年にも花園へ。宮崎県内では無敵、花園出場は当たり前、と言われていた時代で、今から考えれば夢のような話である。(敬称略)

<高校ラグビー>高鍋14―5日川

やったね!
高鍋(宮崎)は日川(山梨)を 14-5で破った。

ランニングラグビー 頑張る!

 いよいよですね。全国高校ラグビー大会がはじまった。行きたかったけど、年末のこの時期かなり厳しい。青春18きっぷを使おうと思ったら余計に。大阪は遠い・・・なあ。が、それは、言い訳。あれもこれもって準備してるうちに時間オーバーしてしまった。よだきぼって言うくらいですから、これは当たり前か。どうしようかな・・・で・・・ずるずる過ぎていく一日です。これは置いといて!!

スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校 天運なく81年全国4強で力尽く

 ラグビー部 6

 1981年(昭56)、高鍋ラグビー部が同部史上最高のベスト4入りを果たしたことは前回紹介した。といえば、高鍋関係者には簡単過ぎようか。ラグビー部の先輩、選手、2万人の同窓生にとっては、感涙また感涙の大事件であった。この大会、函館北、神戸、今年日本一になった相模台工を連破して準決勝に進んだ高鍋を待ち受けていたのは、重量FWの強豪・大工大高だった。

 当時のフィフティーンは次の通り。
【FW】上杉(57卒)西村(同)林田(同)税田(58卒)須川(同)三谷(57卒)染山(同)河野修(同)児玉(同)【HB】福元(同)中西(同)【TB】森(同)永友英永友長(58卒)【FB】末永(57卒)

 準決勝は強烈なバックスを誇る高鍋と大工大高との対決、事実上の決勝戦といわれた。しかし、俊足バックスのランニングプレーで相手を蹴散らしてきた高鍋にとってフリな出来事が起きていた。前夜から降り続いていた雨でグラウンドがぬかるみ、その俊足バックスの足を引っ張ったのだ。早い球出しから揺さぶりを身上とする高鍋は足をもがれたも同然だった。

 その一方で、高鍋は平均体重80キロの大工大高FWに押しまくられた。足場が緩くなっただけ不利だった。それでも高鍋は後半23分、パンとを多用して、大工大高陣深く攻め込み、ゴール右ラックから染山が潜り込んでトライ。ゴールも決めた。

 「押され放しで生きた球が出てこない。これではうちのお家芸であるオープン攻撃も出来ない」と、監督の黒岩は語っている。結局、12-6の惜敗となったが、高鍋にとってはラグビー部史上に残る金字塔となった。

 試合後、3位校の表彰式が行われ、高鍋と熊谷工のフィフティーンに賞状と記念メダルが贈られた。(敬称略)

ラグビー部はベスト4

スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校 黄金期に4年連続花園出場

 ラグビー部 5

04605 

九州の高校ラグビー界に一時代を築いた高鍋高校が3回目の全国大会の舞台、花園へ出場するのは1978年(昭53)。当時のメンバーは次の通り。

 【FW】平山(昭54卒)渡辺光(同)日高(同)永友伸(同)永友朗(同)松浦(同)宇治橋(同)川上智(同)【HB】安国(同)甲斐(同)【TB】川上浩(同)永友(同)平崎(同)坂本(同)【FB】安藤(同)

 この時の高鍋は一回戦で 旭川を 50-0、二回戦で強豪の日川を 20-14で連破、三回戦では優勝候補の目黒に 8-32 で大敗した。

 大会後、イングランド遠征メンバーに宇治橋が選ばれた。宇治橋は明大に進学、大学選手権優勝の立役者となる。

 いよいよ高鍋ラグビーの神様といわれ、ラグビー部の育成に心血を注いできた黒岩正春の努力が花開く、3回目出場の6年後にやってきたその黄金時代は、81年から84年まで4年連続花園出場という壮大なものだった。

 その圧巻は何といっても81年。48年創部の高鍋ラグビー部の先輩たちが待ちに待ったベスト4入りを果たすのである。もちろん当時、宮崎県内では敵なしであった。

 一回戦で函館北を 48-0 、二回戦も神戸を 51-0 、三回戦も相模台工を 14-3 と連破した。当然ながらこの時の高鍋の武器も、既にお家芸として全国的にも知られた、走れ、走れの展開ラグビーだった。

 そして、待望のベスト4入りを果たし、準決勝の相手は大工大高。この試合は事実上の決勝戦といわれた。

 高鍋に不運だったのは前夜、雨が降ったことだった。そのため、高鍋の快速バックスはぬかるんだグラウンドに足を取られ、自慢のスピード豊かな展開ラグビーができず、6-16で敗れた。 (敬称略)

***この時のことはよく覚えています。1月3日からはテレビで放映されたから。テレビに釘付け。午前中は箱根駅伝を見て、昼からは高校ラグビー。テレビに映る黒岩先生・・・。あの四角い顔が懐かしくって・・・。応援しました。大工大高の監督さん、顔まで覚えていますが、赤いネクタイも忘れられません。縁起がいいからと変えなかったという。今から思えばよく似合ってかも。***

猫はよ~く寝る!

 ちょっと 休憩。いやし猫のお昼寝姿! 
いっしょにねる!!
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花園で大活躍のラグビー部

 全国高校ラグビー。いよいよ明日からになりました。優勝候補の学校の名前もネット上を飛び回っているようです。高鍋高校のラグビー部は28日が初戦。

 黒岩先生のコネタ・・・。今から20年近くもまえになるかな。帰郷した時にお会いした時か、名古屋だったか覚えていないが(そんなにも昔・・・のこと)、とんでもないことをおっしゃった 「お前たちぉー、教ゅっとは厭じゃった」 ラグビーの授業を受けた時、先生は35歳くらいかな。また、番茶も出花だった乙女のことを「☐☐のやまざる」とも・・・。まぁ、初めて聞いた時は驚いたが・・・そうだったかも知れない。なかには大人っぽい人もいたんだが・・。 そうか・・・大人っぽい人がいたから、男盛りだった先生は厭だったと・・・これを勝手な結論にしよう。(笑)ラグビー部の続きを・・・。

スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校 2度目の花園で大旋風

 ラグビー部 4

 1970年(昭45)、創部23年目にして花園ラグビー場での全国大会に初出場した高鍋フィフティーン。それは高鍋ラグビー部の育ての親といわれる黒岩正春が、自宅を母校のそばに移してまで、その育成に情熱を注いだ結果だった。母校の隣に建てた家はいつの間にか部員たちの合宿所になり、高鍋高校で一年後輩の絹江夫人が、物心両面で彼らの面倒をみた。

 しかし、花園初出場の高鍋は予想通り、緊張し過ぎて実力を発揮できないまま初戦敗退した。相手は下伊那農、スコアは9対10だった。

 悲願の初出場を果たした高鍋だが、2回目の出場までに5年の歳月を要した。当時の高校ラグビーも、やはり走って走りまくる展開ラグビーだった。練習時間のほとんどがランニングにさかれていたことはいうまでもない。既に高鍋の伝統になっていたこのランニングは花園で威力を発揮する。

 一回戦で古豪の秋田工を29対16、2回戦をこれまた強豪の新潟工を49対25で大破した。「走る高鍋」は、花園で大旋風を巻き起こし、結局は3回戦で、大工大高に4対12で惜敗する。

 大会後、日本ラグビー協会から発表されたイングランド遠征メンバーに、高鍋から4人が選ばれている。いずれも高鍋自慢の俊足バックス、小西・石田・金谷・堀川の4人であった。

 金谷は明大、堀川と小西(義)は専大に進んだ。全員一年生から大学選手権に出場、金谷と小西はジャパンのメンバーにも選ばれている。

 当時の花園出場メンバー。【FW】石田(昭51卒)黒木正(同)山本紀(同)小西雅(同)山本司(同)佐伯(同)石淵(同)児玉(同)【HB】小西義(同)西(同)【TB】黒木正(同)石田(同)金谷(同)堀川(同)【FB】松永(同)敬称略 フルネームで書きたい衝動にかられるが抑える。

マイ・ガーデン 夏のなごり・・・。04560 葉牡丹も植えたのに・・・。

やっと・・・花園へ 高鍋高校ラグビー部

 24日(日)のラグビー大学選手権2回戦で、関東対抗戦2位の明大が関西の大体大に14-28で敗れた。3日の早明戦の後半で見た、明治らしい、重戦車が復活したので楽しみにしていた。敗れはしたが、前への魂が復活のニュースは嬉しい!!新しいコーチのもと、次は期待している。

スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校 創部22年目で悲願の花園

 ラグビー部 3

  伝統と栄光に彩られた名門高校体育部の歴史をたどっていくと、必ず数々の名選手のほかに、創成期に貢献した先輩や名監督のドラマとの出合いがある。高鍋高校も例外ではない。戦後の1948年(昭23)創部のラグビー部を支えたのは小森(昭26卒)だった。小森は高鍋がはじめての県内制覇を遂げた50年、主力で活躍、宮崎大在学中にはハーフとして同大の九州制覇に大きく貢献した。

 この小森から宮崎大時代にラグビーを教えられたのが、高鍋ラグビーの神様といわれる黒岩正春(昭26卒)。黒岩が一区を走った第一回高校駅伝で高鍋が入賞したことは前に紹介したが、宮崎大時代、ラグビーに取り付かれた黒岩は陸上部からラグビー部に転向、卒業すると母校陸上部の監督に就任した。

 その黒岩がラグビー部の監督になるのは65年。当時、野球部は甲子園でベスト4に進出、全盛時代を迎えていた。黒岩の最大の目標はその野球部だった。

 陸上出身の黒岩の指導方法は一にランニング、二にランニング。それこそヘドが出るほど走らされた。これが後に高鍋のお家芸となる。それは今年の花園で一躍人気者になった長崎北のスピードを上回るほどだった。

 そのランニングラグビーで、就任2年後に県大会制覇を果たし連続4年九州大会へ。そして70年、創部以来の悲願であった花園での全国大会出場を果たすのである。

 創部22年目でやっと悲願達成したフィフティーンは次の通り。【FW】隅田(昭46卒)岩切(同)河野年(同)横尾(同)清(同)内田(同)橋田(同)河野晴(同)【HB】黒木(同)出水(同)【TB】黒木啓(同)黒木章(同)井上(同)河野雅(同)【FB】田中(同)「出身大・職業は略した」(敬称略)

 このメンバーに中学からの同級生の名前がある。しかし、花園に行ったのを覚えていない。きっと、体育館とかで壮行会などもやっただろうに・・・。卒業した年に野球部が甲子園に行ったのはよく覚えているのに・・・。

 黒岩先生が第一区を走った高校駅伝。24日昨日・・・開催。回数を重ねて今年は57回大会。男子は世羅が優勝する。前に書いてあったが、当時は大阪。1966年(昭和41年)の第17回大会から現在の冬の都大路。

黒岩先生 走るのが好きだった!

スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校 「走れ、走れ」で県大会優勝

 ラグビー部 2 

 高鍋ラグビー部の歴史を語るとき、32年間も同部の指導に当たってきた黒岩正春の存在を忘れてはならない。その32年の間、高鍋フィフティーンを7度も全国大会の舞台・花園に導き、日本代表選手を多数送り込んだ名将。黒岩がラグビーを始めたのは、宮崎大芸術学部体育科に入ってからだった。宮大でも駅伝を続けていた黒岩は、3年生の友達に誘われたのがラグビーにのめり込むきっかけだった。

 この友達は大変優秀なラガーだった。「彼はCTBをやっていたんだけど、パッとディフェンスを抜いて、簡単にパスする。WTBの僕はその球を受けて走り、トライするだけ。ラグビーが面白くなってね」と黒岩。

 ラグビー部に入った黒岩は入部一ヶ月で試合に出され、その試合に勝って全国地区対抗大学大会に出場した。ラグビーのとりこになった黒岩は駅伝の練習に出なくなって怒られたという。「ラグビーで走っていれば、駅伝の練習にもなると思っていた」と、黒岩は笑う。

 宮大を卒業した黒岩は恩師の誘いもあって、そのまま母校・高鍋の教諭に赴任した。体育教師として懐かしい母校の教壇に立った彼は馬車馬のように働いた。いろんなクラブの顧問もやったし、バレー、バスケット、野球部の手伝いもした。

 その黒岩が本格的にラグビー部の監督に就任したのは1963年(昭38)。当時野球部の人気絶頂の時代、素質のある生徒はみんな、そっちに入ってしまった。「部員集めに苦労した。勉強嫌いだとか、先生から見放された子が入ってきたが、どんな子も勧誘した。そんな子を集めて、とにかく全国レベルの野球部に追いつけ追い越せと頑張った」と、黒岩は当時を振り返る。

 その集団が起動に乗り始めたのは66年からだった。この年の県大会で優勝したのだ。「必死でやればなんとかなる」と、部員全員が思い始めたらしめたもの。黒岩の地獄のトレーニングに文句一つ言わずに従った。駅伝選手だった黒岩の指導は ただ走れ、走れ。「走って走って、相手が二人行くところには3人、3人いるところは4人行け」。これが黒岩の指導のすべてだった。(敬称略)

 *** 黒岩先生徹底してたんですね。素晴らしい!!従って走った方も凄い!ただ走れ、走れ・・・か。スパッと抜けたらどんなにか気持ちいいんでしょうね。当時、先生にしごかれた方、思い出をコメントしてくださいませんか。 ***

高鍋高校ラグビー部 発足

スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校 創部当時は片足スパイク

 ラグビー部 1 

 高鍋駅伝チームが1950年(昭25)、第1回全国高校駅伝大会で3位に入賞したことは前回紹介した。尿に血が混じるほどの猛練習を重ね、どうしても勝てなかったライバルの大宮を倒しての全国大会出場だった。

  当時は鶏卵が最高の栄養源。主食の米は現在の米不足より想像も出来ないほど深刻で、各自が自宅からそれぞれ米を持参しての参加だった。後にラグビー部の名監督として知られるようになる黒岩正春(昭26卒)は、この時第1区を走っている。

 黒岩に率いられたラグビー部は65年頃から力をつけ始め、67年から4年連続九州大会に出場するまでになる。そのプロセスは次回以降で説明することにして、まずラグビー部の創成期から紹介してみよう。

 創部は47年春。ひょんなことが動機となってのスタートだった。関西から転校してきた一人の生徒が、だ円形のボールとスパイクシューズを持ち込んできたのが高鍋ラグビーの始まり。宮崎ではまだラグビーがマイナースポーツの時代の話である。

 当時は進駐軍の命令で、軍国主義の復活につながるとして、剣道や柔道など日本の伝統武道が禁止されていた。そのうっぷんを晴らそうと高鍋の生徒たちは、このイギリス製格闘技に飛びつき、ボールを蹴り始めた。

 その数約30人。だが、そのころは正式な部として学校から認められてはいない。いわゆる同好会だった。

 練習ばかりではつまらないといった声が出始め、学校に内緒でよく他校に遠征試合に出掛けた。しかし、公認のクラブではないので予算がない。

 仕方なくジャージーはカッターシャツを黒色に染め抜いて着用した。スパイクはなくフィフティーン全員が裸足だったという。

 1年後、同好会は待望の部に昇格した。そして後援会もスタートした。初代会長は金堀伸夫(故人)、当時の校医久家安造(故人)も金堀らと物心両面で選手をバックアップした。

 だが、ジャージーは揃ったもののスパイクまで買う余裕はなく、選手たちは片足ずつ履いてグランド を駆け回った。(敬称略)

 野球部の創部も大変だったが、ラグビー部も負けては居ない・・・。

高鍋の町並み

Takanabetourou  高鍋の町に設置されているらしい、たくさんの灯篭。9月に帰郷したおりに高鍋駅にあるのを見たが不気味さを感じた。歴史好きな私には、人の頭・・・兵隊の頭が、モチーフなんかなと思えるほどのものであった。

 今回、彫刻家田中さんの日記で、実際に町に並んでいるたくさんの灯篭を見た。2000個・3000個もあるそうだが、どうですか。不気味だと思いませんか。 Tourou3_1 Tourou4_1 

 12月19日の日記を見ると被害も受けて見えるようだ。田中さんは、灯篭の写真を初めて掲載された。(写真は田中さんの日記からお借りしました)

醜悪な灯篭を撤去し、元の高鍋の景観を取り戻したいと思っておられるようだ。歴史が息づく町としてみんながさんぽを楽しめる町並みを取り戻してほしいと・・・。

 遠い名古屋からエールを送る!!!

 夜になって・・・田中さんの日記を見る。一度書いたけれど、書き直した言葉、“生首が並んでいるようだ”と田中さんは書かれていた。まさにそうなんです。石井十次の名前の前に、生首が並んでいるという印象をもったのが正直な感想でした。リアルすぎて書けなかった・・・。

 灯篭の火は、今まさに文教の町・高鍋では”種茂公の教え”の火が消えかからんとしている哀切を漂わせているだけである。と田中さんの日記にあったが、種茂公が何をされたか知らない人が多いんだろうとも思う。

 高鍋藩を大きく発展させ、「中興の名君」と言われた秋月種茂。彼が藩政改革の重要な事業として、まず取り組んだのが、「優秀な人材を育成し、登用する」ということであった。 上杉鷹山の兄とまず紹介されるが・・・。 もっと凄いことは、世界でも、多分初めて児童手当を農民に支給し始めたことだと。当時の農民は生かさず殺さずという生活の中で困窮していた。生まれた子供を間引くということが日常茶飯に行われていたんです。日本国中で・・・。浮世絵にも、生まれた子供の顔を母親が手で覆って殺すものがある。それが当たり前の時代に児童手当を支給したんです。人材登用するためにも、子供を育てようとした。命を大事にした。

 種茂公はじめ、郷土の歴史を知ってほしい。郷土の歴史に興味を持って日が浅いのに偉そうなことを書いてしまったが・・・。

参考図書 宮崎の出版社鉱脈社刊『志は高く』高鍋の魂の系譜 和田雅美著。

高鍋高校 駅伝部 黒岩正春

 手元にどこかの新聞に連載されたであろう記事があるのでコピーしたいと。個人情報は卒業年・名前は苗字だけ・職業は略します。表紙がないのでいつの物かもわかりません。タイトル文字が福岡工大付に通っていた、93年柔道世界選手権48キロ級金メダリスト、田村亮子になっています。つまり、この小冊子は93年頃のものかもしれません。野球部はクリックしてね。

 高鍋高校ラグビー部について・・・。それには、まず長いこと監督だった黒岩先生のことから。

 スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校 黒岩は骨折隠し全国大会力走

 駅伝部 

 1950年(昭25)12月末、大阪の師走は冷たかった。まだ焼け跡が残る大阪・ミナミの繁華街、道頓堀を若い男の集団が歩いていた。全員が戦闘帽をかぶり、軍隊用のマントを羽織り、これまた軍隊用のゲートルを巻いていた。

 戦後の混乱期が残る当時では別に珍しい服装ではなかったが、歳末特別警戒中の大阪府警の警官には浮浪者集団に見えたのだろう。呼び止められて職務質問された。

 一瞬両者の間に険悪な空気が流れた。その時である。いかにも集団の中のリーダー格に見える一人の屈強な少年がはっきりした口調でこう言った。「私たちは宮崎県から来た高校生です。決して悪いものではありません」この少年が高鍋高校駅伝部の主将黒岩正春(昭26卒元高鍋ラグビー部監督)であった。

 黒岩たちは大阪で行われた第一回全国高校駅伝大会に出場するため高鍋からやって来て、大会の前日に市内見物をしていたところ職務質問されたわけだ。

 しかし、この「浮浪者集団」はその翌日、郷土宮崎の人たちをあっと言わせる快挙をやってのけた。

 大阪・堂島の毎日新聞社前をスタートして堺市で折り返す6区間で行われた第一回全国高校駅伝で3位に入賞したのだ。

 高鍋の花の1区はその黒岩。レース前、疲労から左足を骨折(左中足骨亀裂骨折)していたのを隠して力走した。結果は17位だったが、2区の上野春雄(昭26卒)が健闘して、一気に7人をゴボウ抜きして3区の1年生佐々木幸雄(昭28卒)にバトンタッチ。

 佐々木も力走また力走、同じように7人を抜いて3位に食い込んだ。そしてこれを4区の森本広(昭26卒)5区の小田(同)アンカーの大山(同卒)とつなぎ、見事に3位入賞を果たした。

 タイムは1時間50分17秒。優勝は広島の瀬羅だった。この模様はラジオを通じて全国に実況放送されたが、もちろん宮崎でも県民がラジオの前で大歓声を上げていた。」高鍋はこの年、野球部が九州大会準優勝二重の喜びとなった。この後、黒岩はラグビー部の監督となり黄金時代を築き上げる。4505

その昔は明治のラガーマンと新年会!

 ラグビーシーズンたけなわですね。まさに格闘技のラグビー。ノーサイドのあとの爽快さいいですね。大好きなラグビーを語ろうかな!Meijidaigaku1

 ラグビーとの出会いは、高鍋高校在学中の体育の時間。黒岩先生は、女子にも楕円のボールを持って走らせた。

在学中に、ラグビー部は、花園初出場!!!

 その後も何度か、高鍋高校は花園に出場したが、テレビに映る黒岩先生が懐かしくて応援した。

 この色紙を書いてもらった平成3年頃はは、ラグビーシーズンが終わると、大学生の東西対抗戦が名古屋市は瑞穂ラグビー場で行われていた。

 15年も前になるのかと、感慨深い。学生が大活躍して、社会人に勝ったころかな。 

 右上から、岡安・永友洋司(都城)・西原・元木?・小杉山。下段右の佐藤・吉田義人(秋田工)・キャプテンだった小村淳かな!

 東西対抗は、緑ラグビースクールのみんなと応援に行った。子供にラグビーどう?って薦めたが残念ながら、うんとは言わなかった。 

 当時は、温暖化も今ほどじゃなかったのか、ラグビー場もよ~く冷えたんです。それでも、子供たちは、あこがれの選手ばかりなので楽しそうでした。

 試合が終わると、明治のOBたちと、名古屋での新年会があった。早稲田の、郷田・今泉、チッチャなS・Hの堀越など当時はファンだったが、私のまわりには。、明治大学のOBの人が見えたので、新年会は明治へ。

 初めて参加した新年会は今はなくなったが、サッポロビール?の浩養園の焼肉パーティだった。肉も野菜もあっという間になくなったっけ!

 元木が「難波のタイソン」って自己紹介した時は、みんな大受けした。選手はみんな、子供らにも気配りしくれて、優しかったので、感激したことを覚えている。

正月準備 ぺっと(魚たち)

 今朝は冷えた。名古屋でも氷のはった処もあったようだ。寒いのが苦手な花はちょっと大変。アロエ・金のなる木・サボテン・ギンギアナム・ナスタチュームなどなど。狭い玄関がいっぱいになる。しばらく辛抱しなきゃ。ベランダにもあるが雪が降らない限りは大丈夫かな。

 キノボリウオの入っている水槽を掃除。キノボリウオは水質に拘らないし、浮き上がって呼吸することも出来るので、飼い易いが、なおざりになって可哀想でもある。肉食だから、仲間を入れてやれんので、寂しくひとりぼっち。これ以上水が汚れたら・・・というまでホカッテある。面白いのは、水の中にいなくても体が濡れていたり、泥に潜っていれば生きていけるらしい。熱帯魚なので、通常水温は26度に設定。

我が家ではもっとも魚らしい姿をしている。グッピーみたいにおしゃれではないけど、好きだ。Nemuineko11_3

 猫が若いときは、水槽の外から飛びつくことが多かった。魚は隠れるが、すぐに出てくるのでまた飛びつくなんてことをやっていた。グッピーには飛びついたりはしない。15年目を迎えた白猫ゆき、今はしらんぷり!! お魚たちの正月準備は終わった。0228_1 0301_12638_1 

猩々人形の由来は?

 Photo_fes_photo_1 今年の夏、名古屋ど真ん中まつりで、優勝した鳴海商工会の大きな大きな人形・・・猩々(しょうじょう)。子供の頃とっても怖かったって言われる猩々。何故、あんな人形がおまつりに出るようになったのか不思議でしょうがなかった。鳴海・大高・有松(緑区)の猩々から写真をお借りしました。

 中日新聞の今朝の朝刊【なごや特走隊】に寄せられた質問「緑区には猩々の人形が出る祭りがあります。この地域特有らしいですが、由来が分かりません」に答える為、記者が奮闘したようだ。

 そのまま引用したいところだが、ちょっと長いので・・・。記者が、辞書を引いて「猩々」を調べると、中国の想像上の動物と出てきたそうです。姿は猿に似て、顔は人間のよう。酒が大好きで顔は真っ赤。室町時代に成立した能「猩々」は、親孝行の若者が猩々から酒が尽きないつぼを与えられるというストーリーで、その中で猩々は福の神として描かれている。と続いている。

 えらい、長い歴史があるんだ。記者も同じ思いだろうか?鳴海の投稿者のところへいく。鳴海八幡宮で毎年10月に行われる例大祭では、2メートルを越す、猩々の人形をかぶった人が神輿(みこし)渡御の行列に参加し、町を練り歩く。各町内の集会所などには別の猩々人形も出現。猩々に追われてたたかれた子は、病気にかからないという言い伝えもあるそうだ。

 記者は謎を解くべく鳴海絞の社長さんや、南区笠寺町の七所神社の宮司さんの処へ行く。色々なことが分かってくるが、由来はまだわかんない。

 鳴海に戻って聞き込みをすると、「猩々が海からやってきた」という伝説があることが分かる。。そこで、名古屋市博物館の学芸員さんに取材。

Oodakasakegura_1   学芸員さんに聞いて分かったことは、鳴海は江戸時代、酒造業が盛んだった。現在の緑区大高町や南区星崎町、東海市荒尾なども同様だった。(写真は大高町)

 西日本では、神輿行列の先頭に、天孫降臨の先導役、猿田彦神に見立てた天狗(てんぐ)が立つことがある。その面は真っ赤。学芸員さん「酒文化という土壌があったからこそ、猿田彦神を、天狗ではなく猩々に見立てたのでは」とほほ笑んだ。って書いてある。ここに天孫降臨が出てくるとは面白い。

 新聞の記事はもう少し続くが、謎は解けた。天狗ですか、故郷(宮崎・木城)では天狗は見たことがあるような・・・。はっきり覚えては居ないが神楽は見た。。比木神社とか、お日子山の祭りの神楽とか。決まって踊っていただろう。比木神社は裸祭りもあったかな?

 猩々は天狗の変わりにしては、でかい!!!

大河ドラマを3倍楽しむ講座 長浜

Nagahamajyou_1 昨日の続き・・・。

午後から曇る。前回も青空をバックに長浜城の写真が撮れずに悲しかったがまたしても・・・。鉄チャンの2005年9月19日の青空がバックの写真を借りる。

 長浜城歴史博物館に行くと、400円の通常の入場券を渡されて、100円を地下で払ってくださいと言われる。どこで講座が開かれるのか、興味があった。大きくはない博物館。なるほど、地下ですか、実際は地下ではない。外から見ればよく解る。盛況のようです。男性がいっぱい。参加者100人はくだらないだろうが、女性は私ら含めて5・6人。

 100円を払って、渡された資料は25ページとかなり分厚い。最後に中村氏の『京都の 江戸時代を あるく』がついていた。

 長浜城歴史博物館友の会の主催ということで会長さんが挨拶をされる。立派な挨拶。いよいよ、太田浩司さん、(皆は先生と呼んでおられる)の登場。

 まずは、45話の「三成死すとも」から最後までの大河ドラマのあらすじを話される。いつも長くなるらしく、簡単にと念を押して始められる。(皆笑う)

主題は【大河ドラマを楽しむ話題】 十分な資料を基に、フィクションか、史実かを検証される。石田三成はじめ、ほとんど知りません。子供の頃に『真田十勇士』を見た記憶はあるんですが・・・。信長の地元に住んでおりますから、信長は少しは知っているつもり。

1)関が原で敗れた石田三成はどのように古橋に逃れたか?『関が原の戦い 石田三成の敗走路』高木清という資料から始まる。地理に不案内ですが、写真を使って、よく解るように説明される。石田三成をかくまって、石田の姓をもらった家があるとか。

2)一領具足の乱を山内康豊・祖父江新一郎が鎮圧したのは事実か?  3)種崎浜の一領具足惨殺の悲劇は事実か? 4)高知城の築城に如何に行われたか? 5)徳川家康養女・阿姫(くまひめ)と忠義の婚儀はいつ成立したか? 6)千代の京都屋敷はどこにあり、何故京都に赴いたか? 7)大阪城落城の時、淀殿と秀頼は爆死したのか? に分けてフィクションと史実を丁寧に話された。

 中村氏の『京都の 江戸時代を あるく』は、6)千代の京都屋敷はどこにあり、何故京都に赴いたか?で使われた。

一豊の妻はどこに住んでいた?  

見性院のそばに北政所がいた。見性院上洛の主目的は北政所に接近するためだったのだ。居住地の特定は、みえない歴史を明らかにしてくれた。を読み上げられ、初めて中村氏が書かれたと紹介された。

 内容が多くて、濃かったので少々疲れた。固くなった脳みそ頑張れ!!長浜市のパワーを感じるいい講座でした。

******  交通費(青春18きっぷ)2.300円 昼食(鳥喜多親子丼)550円 入場料 向源院300円 長浜城500円 土産 鯖姿寿司1.050円 麩198円 合計4.898円 ******

十一面観音 渡岸寺 滋賀県

 長浜城歴史博物館から、「大河ドラマを3倍楽しむ講座」の案内を戴いたので、再び長浜へ。

 Panhu 午後の講座なので、渡岸寺観音堂「向源寺」に向かう。以前、井上靖の『星と祭』を読んで以来、ずっと来たいと思っていた。十一面観音を見たいと・・・。(写真はパンフ)

 長浜駅を通り過ぎて、姫虎・河毛の次が高月(たかつき)駅です。穀倉地帯と思えるのんびりした町。しかし、駅前を日の丸の鉢巻をつけたご婦人が団体で歩いて見える。何!!皆挨拶してくださいます。あとで、聞いたら町長選挙とのことでしたが、それでも、まだわからん。日の丸の鉢巻の謎。

 Douganji1 駅前から、5分もかからずに到着。仁王様が迎えてくれますが、門の前に松の木が・・・。門をくぐると、広い境内の正面に本堂が見えます。本堂の西側に真新しい建物があり、その中に十一面観音像が大日如来とともに・・・。以前は本堂に3体の像が並んでいたそうだ。そんな時に来たかったねと友人と・・・。

 Kannnonsama2_2 十一面観音は東京の上野公園「特別展 仏像 一木にこめられた祈り」(11月7日~12月3日)の初公開からもどったばかりだったようです。

 えらい、色っぽい観音さんです。特徴は大きな耳飾り、右足を少し前に出し、腰を右側にひねった姿など、まとった衣装の質感。なんとも官能的。

体の割りに、手が長い。見れば見るほどアンバランス!何故か?住職さんによると、手を差し伸べるためだそうです。なんと、見事な回答に感心しきり・・・。

 一本の檜で彫られたもので樹齢2000年の木が使われた、ひび割れを防ぐためと、安定させるために、中が微妙にくり抜いてあると住職さんが話してくださいました。全体にひび割れは見られない。凄いものですね。

 井上靖の『星と祭』には、十一面観音は琵琶湖を見ていると書いてあったように思ってきたが、実際は南を向いている?。え~ぇと、住職に尋ねるが、あれは井上靖のフィクションだと言われる。重ねて、渡岸寺の観音さまと書いてあるが、渡岸寺は地域の名前で、寺の名前は、向源寺だと言われる。

 展示の特徴として後姿が存分にみれるのもいいですね。後ろ姿もエロカッコイイと言いたくなりますよ。(写真はおみやげのしをりの図柄)観音様は男でもなく女でもなく・・・? 不思議な存在ですね。

 忘れられない観音様になりました。京都は太秦・広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像・奈良の中宮寺の弥勒菩薩半跏像と共に。

 お隣に並んでいる大日如来も国宝級のものだとか。ただ、滋賀県はいいものが多いので、国宝の指定が受けれないとか・・・。横には象と獅子の朽ちかけた象があり、象は台座で上に仏さんが乗っていたらしい。象の鼻の先がなくなっている。今象の台座を復元中だそうですから、また、来たいね~と・・・。

Douganjimaibuseti  戦国時代、浅井・織田両軍の戦いで、寺は焼失しましたが、本尊の十一面観音立像は土中に埋められて災禍を免れたといいます。本堂に向かって右側にその場所がありました。ただ、埋められている一年の間に金箔が剥がれてしDouganji2まったと。

  向源寺のちょっと先には、高月町立歴史民族資料館もあります。一階は【観音様とは・・・】2階は【“観音の里”たかつき】という展示で興味深いものが多数ありました。写真は野神さん(御神木)槻ノ木とあります。、古い欅のことらしい。

ビーズ手芸 女の子のキーホルダー

 ひと月に一度のビーズ教室。先回の猪は、なんとか皆出来たようだが、難しかった。テグスが思うようにいかなかったと聞いた。

Dsc04450_1 【女の子のキーホルダー】をつくる。色によって表情が違うが、緑と赤いい感じに出来る。

 パーツを作り、まとめていく。まず、スカート。足・腕・帽子と順に作る。出来たら、足に残したテグスでスカート・腕・顔(パール)帽子と通し組み上げる。金具をつけて出来上がり。

  今日は楽勝。時間内に出来あがる。皆、お茶もお菓子も無視してひたすら集中する。オレンジとブルー。先生のセンスがいいので、個性的に出来上がる。

ビーズでいのしし

 13日・・・雨。寒い。テーブルにビーズを広げて、いのししの置物作り!!ビーズの大きさは10mmから6mmまで、比較的大きいが、目が疲れる。

 中途半端な視力です。老眼?(若いつもりが寄る年波には勝てない・・・?)。細かいところが見えにくい。

 まず、鼻から作る。テグスを替えて目の部分を作り、テグスを替えて胴体をつくり、テグスを又替えてお尻を作ったら、やっと形が見えてきた。もう少し・・・。

 後、前足・後ろ足・耳と牙は同じテグスで作り。最後はシッポ。いのししのシッポって、豚さんといっしょ。なんか、元気なシッポになってしまう。

 親子のいのしし。子供を作る。ビーズの大きさは6mmから8mmまで。一回り小さくなったので、太い指で作るのは大変です。あっち向けたり、こっちに返したり・・・・。やっと1ペア出来る。

 もう一匹の親を作って、子供もお尻まで出来るが、もう夕方。続きは明日。

 凄~く疲れた。パソコンに向かう元気もなかった。Inosisi

ラグビー7人制 金メダル アジア大会

 アジア大会で7人制ラグビーが優勝した。(続きはクリックしてね)初めての金メダル。それも残り時間がほとんどなかったのに逆転!!!すごいですね。15人制ラグビーのメンバーとは違うらしい。最近7人制のラグビーよく耳にしますね。

優勝・・・良かった。

東光院 宮本武蔵

 宮本武蔵にゆかりの寺、東光院に行く。木村住職の縁で暮れの植物4444_1交換会と忘年会は東光院と決まっている。今年は雨だが、寒くないので嬉しい。例年は隙間風など環境はかなり厳しい。江戸時代中期に建てられた本堂。無理もないか。

 私たちは普段、東光院と呼んでいるが、笠寺天満宮東光院という。案内板を見る。

 真言宗智山派に属し尾張の名刹笠寺観音笠覆寺天平8年(736年)開創され延長8年(930年)兼平中将再建しその宿坊として創立以後幾餘の変遷を経て天文年再興し今日にいたる。

本尊不動明王は伝教大師の作にして往昔紀州熊野新宮の本尊なりしも縁あって慶安3年当寺に伝来し厄除満願不動として信仰多い

天満宮の一堂あり、往昔当地寺部の城主山口半エ門所蔵されしも縁あって豊臣秀吉公より当院へ授かるものでお酒をお供えすると顔面紅くなると言い伝えにより出世神酒天神として世人の信仰厚く、尾張徳川家代々崇敬特に厚く葵紋の御礼筥等寄付されている

特に近年学問の神様として学業上達・入試合格等の祈願参詣多し

又剣聖宮本武蔵は当寺に一時滞在し、天満宮に帰依し遺品数点現存す此の為武士道上達技藝上達祈願の御利益多し、他に源範賴の由緒あり

4447 境内樹木多く式折々に桜・梅・さつき・花菖蒲・茶花等々年中緑と花の絶え間なく緑少ない都市化の中で憩いの場として親しまれている 当山誌

 宮本武蔵は巌流島で決闘後17年を経て、兵法指南役を目指して江戸徳川家へ行くも仕官できず、尾張徳川家を目的に名古屋へ来る。そして当笠寺東光院に滞在し、徳川義直侯の御前にて立会いするも仕官できなかった。金銭的なことが災いしたとか。しかし武蔵の武術が評判となり入門者続出して、ここに尾張円明流が盛んとなる。

 名古屋に3年間留まり九州に行く。武蔵没後100年祭にあたり(1744年)円明流一門笠寺観音境内に碑を立て、滞在した当寺に自筆の書、武蔵画像、自作木刀を寄進した。

  今回、この自筆の書・武蔵画像を幸いにも見せてもらう。感激!!最初は、保存状態が良くて、本物か疑いたくなるほどでした。名古屋市のHPでも紹介されているので本物!

 小説『宮本武蔵』を執筆した吉川英治氏は、この書を見て、 その筆蹟の素晴らしさを絶賛したと言われています。

MusasumojiMusasie 

 ほんとに見事な書。右手で書いた後、左手で最後はまた右手で書いたと。左手で描いたとされる文字は鏡に映った字が書いてありおもしろい。武蔵画像は、こんなに可愛いのって感じかな。決闘したり、道場破りもしたんでしょ。もっとこわ~い顔だとばかり思ってました。

 木村住職、2年前よりずっとお元気。植物にとても詳しい。名前はもとより、栽培方法など。今日は木村住職に感謝。次回は拝観料お払いしますね。

 東光院では、毎月25日宮本武蔵の遺品を一般公開しています。(拝観料300円必要)

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宝物?見つける!

 朝から、少し気分が悪い。私もついにノロウィルスに・・・・。近くで腹痛とかいろいろ訴える人が多い。まさか・・・。この何年も風邪なんてそばにも寄ってこないのに。

 と思いながら、ハードオフに出かける。デジカメのメモリーカードを安くで売っていたと聞いたんです。でも、目ざとい人はみえるんです。残念でした。 

 フィギアとか、ストラップ、ウルトラマン、仮面ライダー、ぷーさん。いろいろ売ってます。見ました。時間をかけてゆっくりと。ウルトラマンの怪獣で一番人気のゼットン、バルタン聖人みな可愛い。

 機動戦士ガンダムは、小さいのから大きいのまで、沢山並んでいました。とっても値打ちなものから、こんなん高いのって思うものまで。同じにみえるのに。

 Nゲージの鉄道模型も並んでました。鉄チャンの息子は喜びそうです。値段が、妥当なのか見分けるのが難しい。で・・・そんなのは置いといて、JR九州の電車を買った。嬉しい!!!

6162 「特急ひゅうが」と「特急MIDORIEXPRESS」。どうしようか。悩んで、「特急ひゅうが」を買った。高くなかったんだから、二つとも買えばよかった・・・・。1個525円。

6169 北斗星DD51と通勤型電車のキーホルダーも買う。何だか得した気分!!! 

寺原がヒゲ剃って変身!

寺原隼人投手(横浜)がヒゲを剃って記者会見。の記事を見つける。

OKなのに・・・寺原ヒゲ剃っちゃった。続きはクリックしてね。

横浜での意思表明。決意の程がよ~わかるね。

名古屋ドームでの先発待っていますよ!!!

今日は坂本龍馬の140回忌にあたる。

 ある週刊新聞に連載されている「京都 江戸時代を あるく」の筆者歴史地理の研究家・中村氏の今日の記事によると、12月10日は坂本龍馬が暗殺された日だという事だ。坂本龍馬が暗殺されたのは、慶応3年11月15日だが。これを、現在の暦にあらためると、1867年12月10日になり、今日が、140回忌にあたると・・・。-中略- 暗殺者が誰であるか、けっこう話題となる。「いまだ謎」なんだそうだ。とつづく・・・。

 先日ある歴史番組で放送された、薩摩黒幕説。私も、薩摩藩が黒幕だったらどんなにか面白いのにと一年前までは思っていたが違うらしい。

 氏が活字で否定されるのをずっと待っていた。ありえない薩摩黒幕説 ・ 一笑に伏すべき仲間の犯行 ・ 事実認定無理な細川家資料 と根拠になる資料などを示され内容が濃い。

参考文献は桐野氏の「龍馬遭難事件の新視覚」『歴史読本』51巻10から12号、2006年と書いてあった。 

古代遊学会 奈良県纒向(まきむく)遺跡

 前 桜井市教育委員会文化財課長、現、佛教大学非常勤講師、西国考古学研究所、清水真一先生を迎えて、『最古の前方後円墳と纒向遺跡』の話しを聞く会に参加する。

 奈良も京都とは違った魅力がいっぱいですね。

1 最古の持つ意義 (1)鶏型埴輪にみる最古と最後・・・と題して、纒向遺跡から出土した最古の鶏型埴輪の話から始まる。耳までも丁寧につくられた木に掴まっている鶏。その後に出土される鶏はデザインが簡略化されていくんだそうだ。最古のものは羽根が立体的だが、後になると線描きになっている。

(2)弥生式土器にみる最古と最新 と続いていく。

2 最古の前方後円墳 (1)奈良盆地東南部の古墳群 (2)大和の弥生時代の墳墓

3 (1)纒向遺跡の前方後円墳 (2)神仙思想の流行 (3)三角縁神獣鏡

4 では、何故大和平野東南部なのか? (1)大和平野東南部の、地域的な特徴 (2)大和三山と富士山

5 まとめ

 大和の国が、何故に選ばれたかは、三輪三山の存在もあったが、もっと大きい原因は、20年間其処に住んで感じたことであるが自然環境が安定していることが挙げられる、-略- 

 私にとって6時半から始まる今回の講座は、眠くなりはしないかと案じたが、全然そんなことはなく、つい時間の過ぎるのを感じなかったほどだ。基本に立ち返り考えをまとめるのにいいね、と話される人があったが、基本さえ不確かな私にとっては誠に新鮮で楽しい時間だった。

 奈良にある3ッの街道のうち、上ッ街道の話があり、山辺の古道と現山辺の道の話など興味が尽きない。

 神奈川から参加の78歳のご婦人には頭が下がった。清水先生の大ファンらしいがそんな情熱を忘れたくないと思う!

4416_1 テレビ塔ともみのき広場のイルミネーションが雨にけぶってはいたが美しかった。

 親睦会の場では、黒木本店の「百年の孤独」がグラス一杯、1570円だった。いい値段ですね。郷土の焼酎、少しは誇りたくもあるが、酒を飲まないから言えることです・・・。

 宮崎の出版社 鉱脈社の『海を渡った日本文化』が話題になっている、嬉しい限り。残念なのは講師の清水氏は邪馬台国、畿内説かな・・・・?

アクセス数 3000を突破しそう!

 昨日、思いがけず沢山のアクセスをいただきました。アクセス数が3000を突破するのはまだ、2・3日先だと思っておりました。感謝いたします。有難うございました!!(12月9日AM6:30)

 JRの青春きっぷの季節になりました。長浜城歴史資料館からも、講座のお誘いが届きました。是非参加して新しい情報など・・・。

これからも、どうぞよろしくお願いします。

テニス・2日目

 テニスの振替がたまってきたので、昨日に続いて今日もテニス。ただ、ヘッドコーチではなく、21歳のNコーチ

 初中級のクラスだから、一緒のはずだけど、コーチの個性が違うように練習内容も若干の違いがある。メンバーは正式なお人が一人、あと3人が振替です。4名ということはそうですよ。ずっとずっとコートの中です。

 体ならしのウォーミングアップの後は、今月のテーマ「ダブルス」です。前衛の人はどう返すか・・・。朝が早かったせいか今ひとつ波にのれない。特に、バックハンドが。けっこうせこい責め方をしたので、からかわれるが、ヘッドコーチに似たのよと返しておく。コーチ、笑ってた。

 ひとり上手な人が見えたので、楽しかったです。負けないように思い切って打ち返します。はじめの練習試合はその人のサーブを打ち返すことが出来ずに、悔しかった。コーチ曰く、ボールに当てただけでも凄い。って。そうです、弾丸ライナーですから、そんでも負けたくはない。

 30対40のあと、追いつきました。また、凄いサーブです。打ち返さないと負けです。さっきは当たっただけ、一緒のことは出来ん。絶対返す。ラケットがはじき返されないように強~く握ってっと・・・。やった!運良く、いいところに飛んだので勝ちでした。

 勝ったけど、足がクタクタです。もう、だるくってだるくて!Nコーチに、ビギナーコースの時しか知らんけど、上手くなったとお褒めの言葉を。

 Nコーチも、随分とおばちゃんの扱いに磨きがかかってきました。とっても、疲れたけど、楽しかった。来週もがんばろうっと。

413944   近くの駐車場のハゼの紅葉!と我が家の黄葉、スモークツリー

寺原(ソフトバンク)が横浜へトレード!

ブログのメンテナンスがやっと終わった。その間に、ソフトバンクホークスの寺原隼人投手(宮崎・日南学園高)に一大事!

 6日、新聞朝刊を見てびっくり。多村(横浜)と寺原のトレード交換が成立した。って。寺原、今年は復調してきたんで、来年はなんとかなる・・・って思ってたのに。本人のコメントは以外にさっぱりしてる。活字だけでは見えないものは多いだろうが。

 「急に言われびっくり。去年も一昨年も活躍できず、しようがないと受け止めている心機一転頑張る」(朝日新聞12/6朝刊)  

 中日新聞は寺原の話として、ここ3年間、不本意な成績が続いたこともあり、来シーズンこそはという思いがあった。トレードには驚いたが、心機一転、横浜で頑張る。ファンの皆様には引き続き応援をお願いします。と伝えてる。

 スポーツニッポンによると、トレード通告を受けた寺原は福岡市内の自宅前で「チャンスだと思う。九州を出るのは初めてだし、なまりが直るかもしれませんね」とジョーク交じりに話した。

 宮崎なまり、若いときは嫌だったけど、今になると福岡国際マラソンで谷口浩美が日向弁で解説されるのも嬉しいけど。なまりが直っても直らなくってもいいけど、横浜か。いいなあ。

 寺原隼人 2002年新人では、6勝、2年目は7勝あげるも、その後2年間は勝ち星なし。今年は16試合、3勝7敗ですが、7月17日に日本ハム打線を2安打に押さえるプロ初完封勝利。あの時は嬉しかったなあ。その日も心配でなかったわけではない。先発なんだから、頑張れって思ってました。1回の寺原の踏ん張り。簡単に2者連続三振を取ったものの、3連続四球で満塁に。打者は新庄でしたね。ここで寺原が踏ん張った。新庄をサードゴロに打ち取り締めました。その後9回まではピンチの場面はなく104球の完封勝利。

  150㌔の直球はね、甲子園で活躍した寺原が帰えってきたようだった。名古屋ドームにくるんだね。寺原、頑張れ!!!

寺原投手、斉藤和選手会長からも激励の電話(2006年12月07日) クリックすると続きが読めます。

1億円で貸し切りいかが?

シーガイアが新プランなんてニュースも有りました。 宮崎市のリゾート施設シーガイアを運営するフェニックス・シーガイア・リゾートは4日、ホテルや屋内プールなどの主要施設を1泊2日で貸し切りにする「1億円貸し切りプラン」を発売すると発表した。企業が主要なターゲットになるとみられる。

 貸し切りになるのは、1700人以上が宿泊できる高級ホテル、シェラトン・グランデ・オーシャンリゾートのほか、5000人収容のサミットホール、世界最大級の屋内プール、ゴルフコース、屋内外20面のテニスコートなど。

 オリジナルロゴ入りルームキーも作製する計画で、至れり尽くせりのサービスぶり。同社は「1億円以上の価値のあるサービスを提供させていただく自信があります。ぜひ宮崎にお越しください」と売り込んでいる。(共同通信)

 一億円か、シーガイアも相変わらず経営が大変なんかな。

鳴海城跡・・・桶狭間の戦い

寒い一日だった。猫もこたつで寝ている。

 長浜でお会いした、『センゴク』の作家、宮下氏は、次に何を描きたいですかの質問に「桶狭間の戦い」が描きたいと言われた。そこで、その時の戦場のひとつである。鳴海城について書こう。

  1836_1 鳴海城跡は、名古屋市緑区 名鉄鳴海駅から北東に少し上がったところにある。今は部分的にしか残ってなくて、城跡の石碑が建っていて、柵で囲ってある。

 高札よると、鳴海城跡・・・・は

  根古屋Narumimap_3 城ともいい、応永年中(1394~)安原宗範の築城といわれる。永禄3年(1560)桶狭間の戦いでは、今川方の猛将岡部元信がこの城に配され、義元が討たれた後も最後まで立てこもって奮戦した。その後、佐久間信盛、正勝らが城主となったが、天正18年(1590)廃城となったと伝えられる。

 『尾張志』は東西75間、南北34間で四面に城跡、本丸と2・3の丸にも堀を残すと記している。 名古屋市教育委員会  ・・・とある。

 Syo_img 鳴海城跡に行く途中に、東海道53次の宿場のひとつ、鳴海宿跡本陣跡の高札があります。
 
幕末のころ、そのおよその規模は間口39m・奥行51m・建坪235坪・総畳数159畳でした。平成8年までは本陣長屋門の一部が残っていましたが、廃屋で危険なため撤去されました。

 もう、少し行くと誓願寺が左手 に見える。その奥には、鳴海城の堀があったとされ、夏には発掘が行われていた。江戸時代の瓦のかけらとか発見されたらしい。

 誓願寺は天正元年(1573)に創建されました。本尊は阿Seiganji弥陀如来で境内に芭蕉供養塔、芭蕉堂があります。芭蕉供養塔は、芭蕉が没した1ヶ月後の元禄7年(1694)11月12日に鳴海の門下達によって建立された日本最古のもので、市指定史跡となっています。
  初めは如意寺にありましたが、誓願寺に芭蕉堂が建てられたために移転されました。

明治大学頑張れって叫んでた!

 関東大学ラグビー 早稲田大学 対 明治大学

 今年は早稲田は早稲田らしい、明治は明治らしい仕上がりになってるらしい。とっても楽しみ。早稲田の五郎丸(佐賀工)の活躍が気になっていた。さすが、前評判通です。ただ、危険なタックルでイエローカードになり、退場。その間に明治がと思ったが、早稲田は凄い、明治の動きを封じてる。早稲田が全勝なので有利かとは思っているが、伝統の早明戦です。この時はいい試合になるので期待してました。五郎丸に声援を送りながら、明治に何となく応援したくなってくる。

 高鍋のOBは、金谷福身さんはじめ明治大学のラグビー部に進む人が多い。金谷さんは、ちょっと前はヘッドコーチとして明大ラグビー部を任されていた。どんな気持ちで金谷さんは見てるだろうと思ったら、明治の応援をしていた。何とかしてよ。明治。走れ!!とか叫んでいた。

 右ウイングの濱島(鹿児島実業)・・・走れ!!ロングパスを受けて走り抜けてトライ!あーよかった。トライが決まった。去年の屈辱は晴らしたか。

 後半の残りの10分間は、明治らしい、試合運びになって面白かった。明治伝統の重戦車復活です。こうじゃなきゃ・・・。ついつい、熱が入りテレビに向かって叫び続ける。早稲田の巧みな試合展開に負けたが、最後は見ごたえが有りました。1月2日からの決勝戦に向けて頑張ってほしい。

早稲田 43 : 21 明治

高鍋高校ラグビー部 対戦相手決まる。

 第86回全国高校ラグビー(12月27日~1月7日、花園ラグビー場)の組み合わせ抽選会が行われ、3回戦までの組み合わせが決まったようだ。朝日新聞12/3朝刊

高鍋高校の初戦の相手は日川(山梨)。 

12月28日午後1時45分 花園第1グラウンド 

日川の中山貴仁主将は、開会式の選手宣誓に決まった。○…抽選で選手宣誓に決まった日川の主将・中山は「本当はやりたくなかったんです……。言葉を考えたりするのが大変そうだから」と苦笑いした。とはいえ普段はFBで、チームメートに向かって後ろから大声を出し続けているリーダー。「感動を与えられるような言葉を考え、堂々とした宣誓をしたい」とすぐに気持ちを切り替えていた。

毎日新聞 2006年12月2日 19時16分 (最終更新時間 12月3日 0時40分)

 是非、初戦突破してもらいたい。花園まで応援に行こうかな?黒岩先生にも会えるだろうし・・・。

頑張れ!!高鍋高校ラグビー部(組み合わせ表はクリックすると大きくなります)

86 12月第1日曜日は大学ラグビーは、伝統の早明戦。それに、福岡国際マラソンもある。どちらも楽しみ!!テレビの前から離れられない1日になりそう!!

猫の獲物・・・

 園芸友の会の生き字引的存在のH田さんを尋ねる。月曜日と2回目。今日も留守。具合が悪いと聞いているので心配してる。会員のM浦さんも心配して電話をくださる。近所の方に聞いてみたが解らず。

  石の収集家でもある。秋ごろのNHKの朝の番組で石採集の話題でPap_0007_2 出演されていた。まず、東海地方で放送されて、全国版での放送もあった。一度、石を見せていただいたことがあるが、それはたくさん整然と並べてあった。熱田神宮で年に一度展示されるそうです。その時に石の横 に並べるのに、盆栽を始められたらしい。庭にあった、実かずら(美男かずら)の赤い実がきれいだった。

 その足で友人の家に行く。介護されているお義母さんの様子を見がてら。貧血がなくてよかったと 友人は安堵している。80歳を越えられてるので安心は出来ないがと言いながら。食欲がなくて、食事させるのに1時間半かかったとか。母の面倒を見るつもりの自分としては、いつかはわが身と思いつつ聞いている。断固として口を開けてくれないんだよ、って。口に入れれたと思ったら、吹いちゃうし・・・。そう、大変です。自分がその立場だったらどうするかな。

 H田さんの家の前を通って帰るとき、灯りがついていた。遅くなったので寄れないが、なんだかほっとした。

 母から先日、電話があった。落花生を送ってくれると。皮付きがいいかと聞くので皮はゴミだからと言ったら、それじゃ、実だけ送っちゃるわ。って。有りがたいことです。親だからできること。

Pap_0006 9月に帰郷した時の居候猫の話しになる。名前はちび。先日、スズメを取ってきたらしい。大事な物なのか、獲物を見せに来て、そのあとしまって置く場所を牛舎に決めてるらしい。賢いよって。ただの居候ではないと言っている。我が家の猫は役立たず・・・。

 ちびはスズメの次にとって来たのが、ハト。母曰く、まだ暖かったのでもらって食べたって。知り合いが来たので一緒に食べたらおいしかったそうだ。山鳩は、年越しそばのだしによく使った。街中で見かける鳩ではない。

 猫の獲物を食べた人は少ないだろうなぁ。(笑)

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掛川花鳥園

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    掛川花鳥園 2006年4月4日快晴