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戦国時代の高城の合戦 3

 高城合戦の時の地図を見ると、山城である高城の南側、小丸川に沿って、平城が現在の喫茶店と木城クリニックのあたりに描いてある。平城の話は聞いたことが無かったので興味が深まる。木城町の広報きじょうに面白いことがかいてある。

 高城合戦は城だけでは戦いきることは出来ないので、島津氏は山城の麓から平城までを合理的に利用していたと考えられるそうです。

 現在の木城町在地区には「立小路」「横小路」という地名が残っていますが、ここには当時武家屋敷が並んでいたと考えられ、現在も続く家の立ち並び方は当時とほとんど変わらないとあります。ウッソー・・・。そうか、そうなんだと目からうろこ。狭い道が迷路のようだった様な気がするし、子供の頃のあの当たりの雰囲気はちょっと違っていたように思う。
 
 わが故郷の歴史、中々のもんじゃん?と嬉しくなる。どうもそれだけではなくて、高城は1000年以上も前の律令の頃に日向国府(現西都市)から大宰府(現福岡県)に通ずる官道の要となる道が通っていて、駅(うまや)というのが現在の役場周辺に置かれていたようです。

 この官道は高城合戦の時には薩摩往還と呼ばれるメインストリートだったんですね。当時日向から薩摩国(鹿児島県)や豊後国(大分県)に行くには避けて通れない道です。想像すると、そんな重要な道に睨みを聞かせるようにそびえ立つ高城の天主・櫓・・・。青空をバックにいい風景!!復元されるといいのに財政的に無理かな。

 重要な城主を託された山田新助は島津家久の高い評価を受けていたんですね。まだまだ活躍は続きます。

 平城は日常の政務を行っていたようです。土塁で囲まれ、さらに外側は空堀で厳重に守られたつくりになっていました。土塁は現在も一部が確認されています。って。あの当たりも学校の帰りに時々通っていたがそういえば土塁によじ登ったかな。

 高城の麓の平城で生活していた武士団は、戦いが始まると、高城に入り、敵方の攻めに備えたと考えられますが、高城の登城口は確認されていないようです。 じゃ・・現在もある、桜まつりの時に登ったあのくねくね曲がった階段はなぁに。よく考えるとあの階段を登ってたら時間はかかるし大変かも。非常時の登り口は必要だろう。見つからないと益々歴史ロマンは広がって嬉しいが。現在の高城辺り クリックすると大きくなります。GoogleMAPよりTakajyoumap
 
参考資料広報きじょう シリーズ文化財よもやま話 26 

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