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戦国時代の高城の合戦 4

 天正15(1587)年3月1日に秀吉は大阪を出陣します。たかが九州の南の日向に向かって秀吉が出発するんですね。そんな大事な歴史が隠れていたとは・・・・。それも12万の総軍勢で向かうとは。

 島津軍は豊臣の大軍を迎え撃つために豊後国から日向国に後退し体勢を立て直すことにしました。これを見た秀吉は弟・豊臣秀長に8万の軍勢の総大将を命じ、軍監に尾藤知定をつけて島津軍を追撃させます。

 4月6日ついに決戦を迎えます。秀長は高城を取り囲み攻めます。このときの豊臣軍の布陣は凄い人数で、こんなに大げさな合戦だったのかと驚きの連続です。高城の東に秀長部隊1万5千大友義統部隊1万5千・西に吉川元長と広家1万・北に毛利輝元と小早川隆景2万5千・そして南に宇喜多秀家1万5千。まだいるんですよ。周囲に黒田孝高蜂須賀家正がいるという圧倒的な人数です。

 顔ぶれも戦国武将がずらりと並んでいたんですね。(@_@) (@_@;) ようもこんな田舎にご苦労さんといいますか、なんといいますか。それに対する我が故郷高城の守備といえばなんと1300だったと。桁が違いすぎます。見間違いではと資料を改めて確認しました。間違いなく1300です。

 島津義久が2万の兵を率いて応援に駆けつけますが、根白坂に砦を構える宮部継潤に進路をふさがれてしまいます。宮部の兵は3万とも言われています。深さ約3m幅5mほどの空堀を掘り、柵をつくり背後に鉄砲隊を備えます。これって、まさに長篠の合戦じゃありませんか。

 困りましたね、島津軍は高城の救援どころではありません。島津義弘は1万6千の薩摩の精鋭部隊でこの白根坂の陣を突破しようと夜襲をかけます。打たれても打たれても柵を目指して肉弾戦を展開します。一方継潤は鉄砲部隊を駆使して必死に持ちこたえます。必死に持ちこたえるのが鉄砲を持っている継潤って書いてありますが、攻撃を受けているんだからそうか・・・。武器だけを見るとそうではないような気がするが・・・。続きます。

参考HP佐土原城遠侍間高城の合戦 
参考資料 『戦国武将島津義弘』 姶良町歴史民族資料館

秋の花 フジバカマ03640 

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