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石田三成と佐和山城と・・・

 Dsc06049_2 講師の伊藤真昭(しんしょう)氏は、『信長公記』に出て来る城の跡に建てられたお寺に住んでおられるそうです。

 当日配られたレジュメ。

はじめに ~石田三成の思い~
①石田三成の故郷への思い。
②母への思い
③三成の父、正継への思い

1 湖北の領主~秀吉後三成以前~
2 山内・堀尾の移動と三成の佐和山入城
3 天正19年検地
4 文禄4年の秀次事件
おわりに ~出頭人石田三成と関ヶ原の戦い~

 全部書くわけにもいかないので、後半の秀次事件のころから書いてみたいと思います。豊臣秀次は秀吉が子が生まれなかったので養子にもらった人だが、後に秀吉に秀頼が生まれたので、疎ましくなり自害させた。簡単過ぎるが許していただきたい。くわしくはここ。この中にある瑞泉寺の横には大きな石碑が建っている。また、近江八幡に行くと、山の上に秀次の城があり、秀次の評判は極めていいのだけれどなぁ。Oumihatiman

 主題は秀次の死んだことではなくて、秀吉が求心力を強化するために政策担当奉行人の地位向上を図ったそうで、それまでは佐和山城は三成が預かっていたのだが、城主になったと。豊臣秀長が城主だった、大和郡山城に増田長盛を、増田長盛が城主だった近江岡山城に、長束正家を城主に、小早川秀秋が城主だった丹波亀山城に前田玄以を城主にしたと。武将の名前がいっぱい出てきますが、名前を聞いたことはあるという程度でよく分かりません。これから勉強しまぁ~す。

 おわりにということで、三成が佐和山城に入ったのはいつか?いろいろ言われているが、天正18年7月説は成立しないだろうと。城に入った点を重視すると文禄4年7月。秀吉による権力集中の結果秀吉有っての三成であり、三成あっての秀吉でも有ると。天正とか、文禄という年号も厄介ですね。西暦に直してもらえると、時間の経過が分かりやすいが、中々そうはいかないようですね。秀吉が亡くなると自然に三成の立場も危うくなるわけで、秀頼が仮に成人していたとしても、三成が没落していくの必然で、秀頼には秀頼の側近がいるのだからとも。関ヶ原の戦いの前には、三成は佐和山城に蟄居させられているそうです。

 まとめとして・・・
関ヶ原の戦いは、没落する三成が一発逆転を懸けた戦いだったんですと。豊臣のためというのは大義名分であったと。家康にしろ思いは同じだったんでしょうね。豊臣の家臣の間の戦いなんですと。戦場として、関ヶ原が選ばれた理由の一つは、三成が5年間西濃地方を治めていたことだとも。

 質疑応答で、小早川が裏切らなければ西軍は勝っていたのかという質問をされたが、ドイツ人の軍事家も認める布陣だったというが、軍事に詳しくないので分からないとおっしゃる。

 あぁ~難しいなぁ。人物はたくさん登場し、事柄もたくさんあって難しい。まだ、講座が2回あるので時間が許せば聞きたい。

 帰りの電車の長浜から見る伊吹山。Dsc06056

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コメント

 お疲れ様です。暑い中に積極的に講座に参加されて、詳しく勉強されているようで、頭が下がります。秀吉と石田三成の人物相関図が複雑に絡み合っているのが内容から理解できますね。
 秀吉の甥の秀次の不幸は、司馬遼太郎の「功名ヶ辻」にも描かれていましたね。
 次回の講座の内容も又教えてください。講座を開催する側の者として参考にさせていただきます。それにしても、博物館の運営は全国的に厳しいですね。

豊臣家を思っての戦でなかったというのは
新しい説でしょうか そんな感じではないようですが 秀頼が大阪城を出て少しでも
京都くらいにおれば東軍も団結できなかったと思いますが、仕方のないことです
暑い中よく行動されておられます

長浜市の北だから少しは涼しいかなって思ってましたが暑かったです。駅から会場が近かったので助かりました。学芸員のoさんにも挨拶できましたしね。

内容は淡々とした話振りで、ここが言いたいというところを掴むのがちょっと大変でしたね。なにせ勉強不足ですから・・・。

お隣の高鍋町が、大河ドラマの 「天・地・人」にからめて、姉妹都市であり、大河の舞台になる、米沢市の応援をするようですね。愛知県は東海市も米沢市と姉妹都市なのですが、どんな取り組みをするのか楽しみです。

次回も三成と関ヶ原の合戦 参加したいと思っています。また、よろしく!!

三成は豊臣家のことを思ってなかったわけではないでしょうが、思いは複雑だったのではないでしょうか。

私の嫌いな家康にしてみても、ナンバー2の座を掴んだら、次は自分が・・・でしょ。

先回の講座の時の、家康が勝ったのでなくて、東軍がかったという話は実感がありましたね。

外様大名ばかりの中で、いかに徳川政権を維持してゆくか家康は、苦心したんですね。天皇を利用して長い徳川政権を維持できたと聞いた時は納得でした。

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