講演のあった彦根市鳥居本地区公民館から、東山道(近世中山道)鳥居本宿を渡り、外堀に向かいます。
太田さんのファンだという女性たちが、わぁわぁきゃあきゃぁ まるで18の小娘のように楽しそう。この会も女性が目立つ。今は戦国武士が人気だというが、埼玉から来たという女性は20代前半、彼女を誘ったという友達も同じくらいの年代。友達は東京からだとか。三成が若い人に人気だという証かな。
散策コースの地図の⑤の外堀が左へ曲がるあたりで説明がある。
散策コースに申し込みがあったのは80人、会場で参加を決めた方まで入れると、はっきりは分からないが100人近い人数がぞろぞろ歩くのだから大変。
⑥の内堀に向かって歩く。途中に本町筋の道路が残っている。とても狭い。もう一本道が残っているが、ここは、馬なら一頭が、人なら二列で歩くのにやっとの狭さくらいだろうか。
⑥の内堀の先に奥の谷があり、佐和山城跡の小高い山が見える。土塁が部分的だけどよく残っている。
そこから引き返して、本町筋を歩く。近江鉄道の鉄橋をくぐって、殿町谷にある、⑨の大手土塁、内堀、京橋通りと歩き、いよいよ⑩の大手口に到着。
大手口は殿町谷にあり、関ヶ原で裏切った小早川秀秋が急先鋒を命じられて、左の方から太鼓丸に上がってさらに本丸を落とした。一方、からめて、西の丸と二の丸の間の谷、北の方から本丸に突入したのが田中吉政と言われていると。
佐和山城は焼け落ちたのかという質問があったようで、それには焼けた瓦が出ていないので.焼けていないというのが今の城郭研究者の意見だとか。太田氏の興味深い説明は続きます。いやぁ 現地で聞いていると、目の前を鎧兜に身を包んだ武者が走っているように想像しやすく面白い。
佐和山城跡には石垣も残っていないらしいが、それらの石は彦根城を建てる時に運ばれたと。午前中の彦根城で見た、野面積みの石垣などが佐和山から運ばれた石だったのかな。佐和山城跡に登ると、その彦根城が見えるらしい。
後に朝鮮通信使が通ったという 近世朝鮮人街道に立って、この道の先の佐和山城跡の切通はこちらから行くといい。北からもいけるが危険。女郎谷の話をされた時は、一部の参加者から、またこの話と笑いが漏れた。曲輪、馬冷池、シラミ坂のゆわれなど面白い話をされた。
京都に続く、外堀にかかっている京橋が当時のものではないが、赤い鉄の橋になって残っているのを今日発見したというので見に行きます。京橋の先は工場でいけませんが、その先は新幹線の下のトンネルになっているのは農道として使われていたから・・・。
内堀の中に侍屋敷があり、内堀と外堀の間に城下町があった。史跡に指定されていないが残っている土塁は多い。現説を聞きながら散策するのは最高!!写真はクリックすると大きくなります。
とても書き切れる内容ではないがおしまい。現地の写真、エピソードなどはまだ続きます。
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