教師

同窓会

 アパホテルの美味しい食事をいただきながら、同窓会は盛り上がっていきます。参加者は30人くらいだったでしょうか。

 高校はとても環境のいいところにあります。建築家のKUBOさんがおっしゃるのに・・・春はグランドにれんげやクローバーが咲き誇り、夏におは野球部が甲子園球場で活躍し、秋にはナキンハゼの紅葉が彩りを添え、冬にはラグビー部が花園で活躍する。いつでも尾鈴山を仰ぎ、小丸川の堤防を夕日に向かって走り、太平洋の波音を聞きながら文武両道に励む・・・。ちょっと表現方法が違ったかな・・・。KUBOさんは青春ドラマの一コマのように語ってくださいましたが、決して青春ドラマではありません。川向こうの堤防にラグビーのH棒が立ち、こちら側には甲子園出場を記念して造られたらしい町営球場があります。ほとんど高校の野球部が使っています。広い校庭には場所を取る、野球部もラグビー部もいないので、テニス部もバレー部もおもいっきり練習に励めます。

 KUBOさんの講演、高鍋の歴史 の中に高鍋の秋月藩出身の上杉鷹山が殿様なのに一汁一采の食事に耐え、粗末な着物を着て米沢藩の再建が出来たのか、.その兄秋月種茂は児童手当なるものを何故支給したのか?

 野球部を甲子園に連れて行った平原先生は、有望な絵描きの道を捨て、戦後の混乱期の子供たちを、自分の持ち物を食べ物に変えて育てることが出来たのか?いろいろな謎がありましたが、KUBOさんのお話を伺って目からうろこです。

 高鍋の秋月藩は福岡の秋月藩から続く名門ではありますが戦国時代に受けた負の遺産がいつまでものしかかり、ひっそりと語り継がれてきたそうです。

 同窓会名古屋支部総会の最後に、校歌を1番から4番までと応援歌を1番から3番までしっかり歌いましたよ。尾鈴山や小丸川、鳴海が丘(海の音が聞こえる丘)真善美など懐かしい歌詞がいっぱいです。

 Dsc07558 その後の二次会は、高鍋ワールドが広がりました。30人くらいの人でいっぱいになったスナックは、すでに心を許している仲間ですから、色々な思い出話が聞こえてきます。

 15年前に初めてお会いしたラグビーの元ジャパンのKANAYAさんはこんなに気さくだったのかと思いましたね。15年前はここまでサービス精神のある方には見えなかったのですがね。話は面白いし、気が効いていて、人を笑わせるのがとても上手でした。

 一番面白かったのはね・・・高校のラグビー部の時、KUIROIWA先生は走れ。、走れと走ってばっかりだったと。高校陸上部付属ラグビー部みたいに、毎日毎日走ることばっかり・・・なぜ???と思っていたら、KUROIWA先生は当時ラグビーを知らんかったらしく、とにかく走れ!走れ!だったらしい。

 若い時にプロ野球の.大洋にいてベスト9になった人もおられました。自慢しないのが.高鍋の気風だとか?内容のある話をあちこちでお聞きしたのですが、長くなりましたので、おしまいです。

 有難うございました!!・・・。故郷の良さを改めて知るいい機会になりました。

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高校の同窓会

 同窓会に行ってきました。同窓会と書いて、同窓の同年の会であることが多いのですが、今回は卒業年は関係なくて同窓会でした。

 地下鉄栄駅2番出口からが近いというアパホテル錦店が会場ですが、地下から上がってみても見つからないのです。10分くらいは探したかな。でももっと分からなくて会場に電話した人もあったので何かほっとしましたね。

Dsc07555 会場の11階に着くと先生が皆とお話し中でしたので、宮崎からはるばるありがたいなぁとごあいさつ。

 皆さん自分よりも年上の人たちです。唯一自分より4つ若い人があって喜んじゃいました。

 名古屋支部の会長や宮崎から来た恩師の挨拶のあと、高校で教師をやっているという若い女性が、校長が来る予定でしたが・・・とあいさつされる。

 その後、東京で活躍されているOBの建築家さんの「高鍋の歴史」の講演ががありました。とても内容の深いものでした。

 二次会は東新町のOBのスナックです。会場は、高鍋ワールドです。(笑)楽しみすぎてすっかり遅くなってしまいました。明日は7時半に小学校に召集されている、学区の運動会です。続きはまた・・・<m(__)m>

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平原野球部最後のページ

 宮崎の男性のことを、いもがらぼくと(芋柄木刀)といいます。「いざというときに頼りにならない、役に立たない男」という意味。ただし、「格好は良い」ということが前提です。≪とイモ殻=といもがら;サトイモの同類、芋は食べない≫の茎で作った木刀じゃもんじゃかい、反りがびっとしちょって格好が良いっちゃが。じゃけんどん、いざチャンバラを始めたら、しのぎを削っただけでポキッとへしょるるじゃねえですか。じゃかい、「見てくれだけの見掛け倒し」を≪芋殻木刀≫ちゅうとです。

 平原先生は、芋柄木刀とは違ってたかもしれない。もちろん格好はよかった。威風堂々というのは先生のことだろうと思う。よく焼酎を飲まれた人のようです。

 スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

 高鍋高校 現在部員50人で2時間半の猛練習

 野球部17 平原美夫  その16

 1983年(昭58)夏、高鍋は10年ぶりに甲子園に姿を見せた。当時の先発メンバーを紹介しよう。 【三】小城(昭59卒) 【二】増田(同) 【右】坂口(同) 【中】横山(同) 【投】清野(同) 【捕】芝(昭60卒) 【一】尾川(昭59卒) 【遊】小泉(同) 【左】本部(同) 監督は現在の猪股(昭48卒)。

 久しぶりに攻守のバランスのとれたチームだった。無理のないフォームから直球、シュート、カーブの3種類をコントロール良く低めに決めるエースの清野、打の中心は、明大時代に主将を務め、社会人野球日本石油に入り、全日本の副主将としてバルセロナ五輪に参加した坂口ら。

 10年ぶり春夏通産9度目の甲子園出場を果たした高鍋の初戦の相手は旭川龍谷(北海道)。この試合は清野が被安打3、奪三振9の好投を見せ、打線も16安打をマークして10対2の大差で圧勝した。

 この好投で清野は本格派として注目されたが、第2戦の相手は水野(巨人)を擁し強打を誇った池田(徳島)だった。予想通り池田の猛打が爆発、1回戦で 3安打に抑え清野は、20安打12点を奪われて完敗した。監督の猪股はこう感想を語っている。「投手も良かったし、打線も素晴らしい。池田はやはりすごいチームでした。」

 この完敗を反省材料に高鍋は10度目の甲子園を目指してきたが、その課程で黒木(昭61卒)木村(昭62卒)ら数多くの逸材を生んできた。「文武両道」の伝統を誇る高鍋らしく、今年の野球部からも早大法学部に投手の近藤が合格、野手の高松、平川が明大合格を決めている。

 しかし、甲子園行きの夢はなかなか実現しない。県大会レベルではいつもいいところまで行く力は持っているのだが、あと一歩。現在の部員数は50人、甲子園を夢見て一日2時間半の猛練習をこなしている。「OBからもシリをたたかれているのですが、うまくいかなくて申し訳ない」と猪股。この高鍋が甲子園に再び姿を見せるのは、いつの日だろうか。(敬称略)

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JR東海運行停止!!

電車にのろうかしらんって、駅にいったっちゃが、 運転中止ってかいちゃっと。たまがったさ。どんげしてかえろかって、おもたっちゃが違う電車に乗って帰ったけんが、駅かいといかったつよ、ひんだれた。

電車に乗ろうと駅に行ったら、運転中止と書いてあったので驚いた。どうして帰ろうかと思ったが違う電車で帰った。が、駅から遠いので大変疲れた。

 夜友達3人と飲み会。6時から始まったのに、時間の過ぎるのはあっという間です。歴史の話、家庭の話などなど、喋り足りないけど、お開きです。そろそろ、10時です。居酒屋 “Mさ来” です。チューハイが格安だったからでしょうか、一人2、000円でお釣り。あーぁ楽しかった。

 JR名古屋駅に着いたら、電光表示の時間が東海道線だけ、一時間くらい前の時間。おかしいなぁ。よ~く見ると、運休・・・。三河塩津駅で人身事故だって。そりゃ、仕方ないわ。Densya これまでにも一度経験あり。その時は事故だって中々発表されずにじーっと待ってました。名鉄の笠松駅での事故でした。昼間だったのでバスで帰りましたが、今回は名鉄に乗り換えます。名鉄は駅から家まで遠いんです。時間が遅いので、市バスも走っているかわからないですし・・・。今頃駅に降りても、タクシーもないのだろうなぁ。頼りになる息子にメールします。「いいよ。どこ行けばいいのって。」無事、帰宅できました。それにしても何で今日、今の時刻なのって、うらめしい。などと言ったら、そういうこともあるわって言われてしまいました。息子の方が人間が出来ているかもしれんと感じました。 

 

 スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

 高鍋高校 父にはなむけの甲子園平原美樹監督

 野球部  平原美夫 その17

 1971年(昭46)、高鍋野球部育ての親といわれた名伯楽・平原美夫(故人)の定年退職後、同じ美術教師の石井秀隣(ひでさと=昭27卒、Kumasemi 宮崎県立本庄高校教諭、福岡教育大学美術科)が、新しい部長に就任したことは、前回紹介した。そして2年後、5回目となる夏の甲子園に出場した。

 監督は美夫の一人息子である美樹(昭39卒)。退職した父美夫は本来の美術家の生活に戻り、絵筆を握ってヨーロッパなどをスケッチ旅行したり、個展を開いたりした。その美夫は75年4月に急逝する。美樹が父親譲りの熱血指導で鍛え上げたチームが、甲子園で活躍したのが、父へのはなむけだったろう。

 あの怪物江川卓(作新学院)に明け、そして暮れた大会である。その人気はすさまじく、江川の試合には野球ファンのほとんどがテレビの前に集まるので、全国の最大瞬間電力消費量はピークに達した。地元の関西電力では、猛暑と雨不足のダブルパンチに見舞われ、電力供給予備力ゼロを記録。大手会社にエスカレーター、冷房の一時ストップを要請するという綱渡りの送電だった。

 江川中心の、「江川大会」といった雰囲気の片隅で高鍋は地道に勝ち進んだ。1回戦の金沢市立戦は3対0.2回戦の山形日大も4対1で一蹴した。そして3回戦、強豪の北陽が相手だったが、0対1の大接戦の末惜しくも敗れた。

 この時の先発メンバーは次の通り。【中】富山(昭50卒) 【遊】平田(昭9卒) 【三】都原(同) 【捕】大富(同) 【一】古藤(同) 【二】吉本(同) 【投】小川(昭50卒) 【右】石黒(同) 【左】樋口(昭49卒)

 日体大に進んだ富山と平田は首都大学リーグのベストナインに選ばれている。美樹の教え子には池田親興(昭53卒、阪神、ダイエー)がいる。池田は中学時代、柔道の選手。その素質を見抜いた美樹が野球部にスカウトし投手に転向させた。

 高鍋野球部が、6回目の夏の甲子園に出場するのは83年。実に10年の歳月を要している。監督は、現在に猪股(ひとし)に代わっていた。(敬称略)

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夏の甲子園始まる

やっとはじまったっちゃね。ことしゃ、のべおかげな。せぇいっぺはりきちかいやってくるっといちゃがね。

やっとはじまったね。今年は、延岡だそうだ。精一杯張り切ってやれるといいのに。

 スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

 高鍋高校 73年アッと驚く打撃改革で進撃

 野球部 16 平原美夫

それまで夏の大会4回、春3回の甲子園出場を記録して、全国にも名を知られた高鍋野球部は1971年(昭46)、大きな転換期を迎えることになる。野球部の育ての親である平原美夫(故人)が定年退職を迎え、部長兼監督の座を降りたのだ。

 後任の部長は石井秀隣(ひでさと、52年卒)。平原の美術でのまな弟子で、彼の強い要請で就任した。

 石井は最年少(32歳)で宮崎県展無鑑査の画家となった美術教師、野球を通じてというより、芸術家としての信頼感が石井に後事をを託させたといえよう。

 石井は野球にはズブの素人だった。だが、戦後に少年時代を送った人のほとんどがそうであったように、野球大好きの野球少年でもあった。それに石井が在学していたころの高鍋野球部は、いわゆる第一期黄金時代、同期生に岩岡保宏(52年卒、横浜球団)や黒木広重(同、大洋漁業)らがいたことも野球熱に拍車をかけたようだ。

 平原の意志を引き継いで、石井はひたすら野球部の充実に情熱をささげたが、2年後、73年夏の甲子園出場で、その努力が報われる。5回目となる甲子園出場であった。

 この年の監督は平原(64年卒)。先に紹介した高鍋野球部の「開祖」平原美夫の一人息子だった。高校野球の歴史でも珍しい「親子監督」が実現したのである。恩師の愛息とともに甲子園に出かけることになった石井は、思いもかけぬ時の流れに驚き、そして感動した。

 石井は当時の思い出をこう語っている。「思いもかけぬ出来事だったが、私の高鍋生活16年の中でも最も感動的な年でした」。

 さすがは名伯楽といわれた美夫の愛息。父の厳しい指導に耐え、早大野球部で心身を鍛え上げられた美樹は、母校の監督に就任すると、思い切ったチーム改革に乗り出した。選手たちが持っている能力をどうすれば100%引き出せるか、美樹の努力が始まった。その一つが才能に応じて打者を右から左、左から右に転向させたことだった。今ではこうした右から左への転向は当たり前だが、当時は珍しく、特別な目で見られたこともあった。

 その美樹の決断が功を奏して、73年の高鍋は県大会でも甲子園でも面白いように勝ち進んだ。(敬称略)

 **  平原先生がついに、定年退職されてしまった。当時美術部に所属していた私は、ある土曜日の朝の特訓(デッサン)にでた後で、美術の授業をサボって教室で友達と遊んでいた。午後はまた、先輩に呼ばれてデッサンに行ったら、先生に「授業はどうしたんだ」って言われて、用意してあった言い訳、「保健室にいました」を飲み込んだことがあった。野球部しか知らんと思っていた私の負けでした。

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監督が病気で倒れる!!!

おとうさんな、あんべがわりーごつじゃが。しごつはほらくっちょちかいひるねげな

おとうさんは具合が悪いので、仕事はそのままにして昼寝だそうです。

 高鍋高校は甲子園でベスト4が一番の成績でした。優勝したことはありません。どうも、宮崎代表が優勝したこともないんです。今年はどうなりますかね。

スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校 66年センバツで5三塁打

野球部 15 平原美夫 その14

 1965年(昭40)夏の甲子園で、エース牧憲二郎(76年卒、南海、オリックス、現オリックス寮長)を擁してベスト4にまで進出した高鍋は、翌66年春のセンバツにも出場した。3度目のセンバツ出場、通算7度目の甲子園だった。

続きはあとで・・・・翌日になってしまった。楽しみにしてくださってるのに申し訳ないです。

 この3度目の出場で高鍋は、センバツでは初めて勝ち星を挙げた。宮崎県勢としても初めてのセンバツ初白星。文字通り三度目の正直だった。

 当時の先発メンバーは次の通り。【中】井上(67年卒) 【二】徳山(同) 【三】海老原(68年卒) 【遊】戸原(67年卒) 【左】黒木(68年卒) 【右】石川(同) 【一】菅原(同) 【投】西原(同) 【捕】永友(同)

 3度目のセンバツ出場を果たした高鍋の相手は古豪の徳島商、高鍋はこれを6対1で一蹴した。そして2回戦ではこの大会の優勝となる中京商と顔を合わせた。

 宮崎県のチームとして初めてセンバツ初勝利を挙げて意欲揚がる高鍋ナインは、この強豪に正々堂々と勝負を挑んだ。中京商は立ち上がり、試合巧者ぶりを発揮して先制の4点を奪う。

 しかし高鍋も負けていない。6回、鋭い反撃で5対4と と逆転してしまった。結局最後は中京商が底力を発揮、高鍋のエース西原の疲れをついて3本の長短打とスクイズを決めて勝利を呼び戻した。

 大接戦の末、中京商に敗れはしたが、実は後世に残る面白い記録をつくっている。この大会、高鍋1チームで何と5本の三塁打を放ったのである。これは25年(大14)以来の記録だった。当時の高鍋ナインがいかに俊足だったかを物語っている。

 この時の高鍋にはちょっとした異変が起きていた。高鍋野球部を育て上げた監督の平原美夫(故人)が病気で倒れたのである。

 平原に代わって急きょ、OBの宮越(51年卒)が監督として甲子園でさいHikijinjya 配を振るった。その後、病気が治り平原は再び監督の座に復帰する。(敬称略)

 びっくりしました、平原先生が病気なんてね・・。真っ黒に日焼けされて、いつもお元気そうでしたから・・・。

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惜しくも準決勝で負ける

夏の甲子園組み合わせが決まりました。甲子園での練習も始まりました。いよいよですね。今年の優勝候補はどこなんでしょうね。宮崎代表、延岡学園の相手校は卓球の愛ちゃんの学校です。スポーツ熱心な学校ですから、強そうです。授業の半分は体育の授業だとか。

スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校 木樽から先制もサヨナラ負け

野球部 13 平原美夫 12

1965年(昭40)夏、通産6度目の甲子園出場を果たした高鍋は、エース牧慶二郎(昭41卒、南海-オリックス)の快投でテンポ良く勝ち進んだ。保原(福島)を1安打、東邦をこれまた1安打と完璧なピッチングで抑え込んだ牧が、準決勝で大会随一の木樽政明(銚子商)と大会史上に残る投手戦を演じたことは前回紹介した。

 どちらも大会屈指の本格派、牧は変則的なセットポジションから重い速球と大きなカーブ、オーソドックスな投法の木樽は、外角速球とキレのいいカーブを対抗した。もし両者に違いがあるとすれば、牧が比較的カーブを多投したことだろうか。甲子園にはこの投手戦を一目見ようと約2万人が詰め掛けたが、そうした緊張の中で先取点を挙げたのは高鍋だった。中堅後方への大飛球を背走また背走で捕球した矢野(詳41卒)の超美技などで牧をバックアップしていた高鍋は4回、その矢野が木樽のカーブをうまく右翼線に二塁打、バントで三進した後、3番小沢(昭41卒)が内角高めの速球を左前に落として先制した。

 しかし、高鍋の得点はこの1点だけで、力投する牧を孤立させる結果となった。孤軍奮闘の牧は8回、銚子商打線に捕まって同点にされ、最終回、1-2とサヨナラ負けを喫してしまう。

 だが、ここまで戦えばナインに悔いはなかった。高鍋野球部の育ての親といわれた監督の平原美夫(故人)に「これまでで一番下手なチーム」と酷評され、牧を除いてこれといった大柄な選手はいなかった平凡なチームにしては、上々の出来だった。大会関係者の評価も高く「優勝してもおかしくないチーム」といわれた。大会を通じて12打数6安打をマークした小沢は優秀捕手に選ばれている。

 この大会、そうした激戦の間隙(かんげき)を縫って同じ九州勢の三池工が優勝するのだが、ベスト4に九州勢が2校も残ったのは史上初だった。もちろんこの大活躍に地元の高鍋町をはじめ、宮崎県民は大フィーバーで帰郷したナインを迎えた。そして、高鍋の名は全国に広がり一躍有名校となった。(敬称略)

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昭和40年・牧と木樽の甲子園決戦

日向弁が東北のことばににちょっるげな。たまげるひともおっとかんしれんが、根拠はあっとよ。落ち武者がキーワードじゃが。

宮崎の方言と東北の言葉は似ているそうだ。びっくりする人もいるかもしれないが、根拠はあります。落ち武者がキーワードです。

 米沢藩主、上杉鷹山のことが知りたくて愛知県東海市の平洲記念館に行きました。江戸時代のとても立派な学者です。平洲は鷹山の最も信頼していた先生です。出会いは鷹山が14歳、平洲が37歳の時でした。17歳で藩主になった鷹山は、平洲の教えを実行して、窮乏を極めていた藩財政を一代で立て直します。その、鷹山は高鍋藩の藩主の息子です。が、江戸屋敷生まれの江戸っ子で、おそらく、高鍋の土を踏んだことはないと思われます。職員の人にとても親切にしていただきました。

 スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

 高鍋高校  牧と木樽の甲子園決戦

 野球部 12  平原美夫 その11

1965年(昭40)春、エースの牧憲二郎(66卒、南海、オリックス、現オリックス室長)を擁して野球部史上2度目のセンバツ出場を果たした高鍋は、頼みの牧が8個の三振を奪いながらピンチをしのぎ切れず長打を浴びて1回戦で涙をのんだ。

 その反省から、高鍋野球部の育ての親といわれる監督の平原美夫(故人)は、牧が不調でも何とか戦えるように野手の守備力と惰力を鍛え上げた。そしてこの年の夏、春夏通じて5度目の甲子園出場を果たした。

 結論からいうと、この大会は原辰徳の父親貢に率いられた同じ九州の三池工(福岡)が優勝するのだが、大会前の評判は銚子商(千葉)の木樽正明(ロッテ)と九州ピカ一の牧に話題が集まっていた。二人とも真っ向から投げ下ろす力投派だったことも、その人気に拍車をかけた。

 高鍋は1回戦不戦勝、2回戦は保原(福島)に6-0で快勝準々決勝も古豪の東邦(愛知)を寄せ付けず6-0で一蹴した。牧は絶好調、この二試合で許したヒットは、わずか2本だった。

 「さあ全国制覇だ」。この快進撃に高鍋町民はもとより県民全体が大騒ぎとなった。牧の球は速く、そして重かった。ノーワイドの変則モーションで、走者がいるときも一風変わったセットポジションで打者を困惑させた。

 その牧と木樽がついに準決勝で顔を合わせる。試合は予想通り両者の投げあいで展開、息詰まる投手戦となった。牧の重い球、木樽の速球との対決は事実上の決勝戦ともいわれた。

 この時の先発メンバーは次の通り。【中】矢野(66年卒)【遊】後藤(同)【捕】小沢(同)【投】牧憲二郎【一】水町(66年卒)【二】都原(67年卒)【左】長町(66年卒)【三】木下(同)【右】井上(67年卒)。

 火を噴くような牧と木樽の投げあいは続いた。要所で重い球を決める牧の調子は、ほぼベストに近く、それは打者の胸元をえぐる木樽の快速球より威力が感じられた。

 そうした緊張感の中で先取点を奪ったのは高鍋だった。(敬称略)

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夏の甲子園 後は宮城県だけ

「スコール」のんだこつあっとね。ぎゅうにゅうでつくっちゃっと

「スコール」をのんだ事がありますか。牛乳で作ってあるんですよ。

Sa360002 ♪^^ あ~いのスコ~ォ~ール。♩^   宮崎県人なら、誰でも歌えるこの歌のスコ ール。宮崎が発祥の地だと知らない人が多い。愛されて30年だとか。最近は全国どこのコンビにでも売られるようになりました。

スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校 九州制しセンバツ初出場

野球部 10 平原美夫

高鍋の選抜大会初出場は夏の甲子園に3度目の出場を果たした翌年、1962年(昭37)であった。この時の先発メンバーは次の通り。

 【捕】屋敷(昭36卒)【中】谷(同)【遊】井上(同)【右】古屋(同)【三】押川(昭39卒)【左】野津手(昭38卒)【一】江藤(同)【投】清(昭39卒、元西鉄、近鉄、東京在住)【二】平原(同高鍋元監督)

 61年秋の九州大会を完璧に制覇してのセンバツ出場だった。

 このメンバーのなかで全国的に注目された選手が二人いた。エースの清と二塁手の平原である。二人ともまだ1年生。

 新聞は当時の高鍋の戦力についてこう書いている。「清の決め球はブレーキ鋭いドロップ。九州ではまだ完全に打たれたことはないほどの威力があった。最近は外角をつくストレートにもスピードがついてきた」。

 もう一つの特徴は九州一といわれたレベルの高い守備力だった。井上を中心とする内野陣は動きが堅実で、特に平原はそれまで18試合ノーエラー、左右そして前後のシャープで華麗なフィールディングで高い評価を得ていた。平原は野球育ての親といわれる当時の監督、平原美夫(故人)の一人息子で、「甲子園の親子鷹」として騒がれた。

 こんなふうに紹介すると守備力のチームといえるが、攻撃面も弱いわけではなかった。チーム打率2割6分9厘、個人的にも古屋の3割7分を筆頭に井上2割7分9厘、押川3割2分7厘、トップを打つ屋敷も2割9分9厘をマークしていた。

Takanabesta11  高鍋高野球部史上でも特筆すべき強力チームだったが、甲子園での最初の相手が悪かった。あのPLだったのだ。この大会では史上初の春夏連覇の大記録をつくった作新学院が優勝したが、PLも結構強かった。

 そのPLと顔があった高鍋は不運。清が好投し、平原をはじめ鉄壁の内野陣が彼を盛り上げたものの、大接戦の末2対3で惜敗、選抜初陣を飾れなかった。(敬称略)

写真は高鍋駅構内 トロントロンファクトリーからお借りしました。

訪問者の皆さんが100人になりました。感謝申し上げます。これからも、どうぞよろしくお願いいたします。 管理人 yodakibo ♥♡♥♡♥

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あの、中京商業を完封

まこち、ぱやんぱやんしちょっかいよ!おとしてかい、ちんがらじゃが

(本当に!(失敗したのは)うわのそらでやっているからよ。落としてしまって壊れてしまった)

 朝日カルチャーで「京都学入門-京都検定に向けて」という講座を受けた。京都在住の佛大非常勤講師の講座である。京都検定を受けたいわけではありません。京都を知りたいのです。現地に生活しているお人の話を聞けるんです。いい講座です。熱く語っていただきました。秀吉の作った京都の話。

高鍋高校 平原美夫 その8

スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校 V候補中京商を完封

野球部 8

 高鍋高が2度目の甲子園出場を決めた1959年(昭34)夏の東九州大会決勝戦は、大変な熱気の中で開始された。決勝戦の舞台となった鹿児島の鴨池球場のスタンドは超満員、両校の応援団や一般の観客で埋まった。上空には宮崎のデパートがチャーターしたヘリコプターが「高鍋頑張れ」の垂れ幕を下げて旋回していた。

 1000人の高鍋応援団の先頭に立っていたのは団長の金橋(昭35卒)金橋のリードで一糸乱れぬ応援ぶりが評判となった。

 名門鹿児島商と新興勢力の旗手として注目されていた高鍋との一戦は予想通り大接戦となった。追いつ追われつの接戦は結局、3対2で高鍋にがい歌が上がった。

 「さあ、甲子園」。高鍋高キャンパスには、初出場の時とは違った興奮が漂った。当時のメンバーは次の通り。

 【中】甲斐(昭35卒)【遊】津江(昭36卒)【捕】工藤(同)【投】永友(昭35卒)【左】古屋(同)【三】岩岡(同)【右】黒木(昭36卒)【二】守園(昭37卒)【一】日高(昭36卒)。

意気揚々ト甲子園に出掛けた高鍋ナインの相手が決まった。その相手は何と優勝候補の最右翼中京商

 中京商と聞いただけで、高鍋のファンはもちろん選手たちも半ばあきらめの心境だった。「もう高鍋の夏は終わった」とスタンドにため息が起ころうとした時、目前のグラウンドでは意外な試合展開が始まっていた。

 永友が絶妙なピッチングで中京商打線を完璧に抑え込んだのである。結果は4対0.予想もしなかった高鍋の勝利だった。

 2回戦の相手もこれまた強豪の天理。この試合も永友が好投して猛打の天理打線を寄せ付けなかったが、勝負の女神は最後まで、高鍋にほほ笑まず、延長15回、0対1で惜敗した。

 エースの永友はこの大会でのピッチングが再評価されて、アメリカ遠征チームに選ばれ、ハワイなどの8試合に登板している。(敬称略)

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アスパラクラブ(朝日新聞)に登録

朝日新聞をなげーこつよんじょるかい、アスパラクラブに登録したばい。

(朝日新聞を長い間購読しているのでアスパラクラブに登録した。)

 登録する時に、知りたい県を選びます。天気予報が知りたい場所も選びます。そうすると、ログインしたサイトのトップに、マイタウンとして、天気予報も常時表示されます。おもしろい。住所を登録した場所の情報もリアルに表示されます。中々便利に使いたいですね。

 高校野球の甲子園出場校も少しづつ決まってきました。高鍋高校は最近はサッパリです。代わりにというか、高鍋農業高校が強くなっています。農高も硬式野球になりました。

 高鍋高校 平原美夫 その7

スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校 食中毒禍乗り越え甲子園

野球部 7

 1957年(昭32)、2度の目の甲子園出場を狙った東九州大会(鹿児島、大分、宮崎勢が参加)決勝戦で宮崎大宮に4-5で惜敗し涙をのんだ高鍋ナイン。

 その中には大会随一の強打者と騒がれ、明大のセレクションでいきなり場外ホーマーを放ち、当時の島岡監督を仰天させた小森幹夫(明大、日本生命、会社経営)がいた。明大に入学した小森は主砲として活躍、リーグ優勝に大きく貢献しする。

 ナインの中には異色選手もいた。日高がその人。日高は野球部創立以来の秀才と言われ、京都大学卒業後、文部省に入り、現在、放送大学総務部部長。この二人を見ていると、「文武両道」を標ぼうとしてきた高鍋の伝統を感じる。

 その高鍋野球部が2度目の甲子園出場を果たすのは2年後の59年夏だった。この年から東九州大会は南九州大会と名を改める。大分、熊本、宮崎、鹿児島に、沖縄が加わってのスタートだった。

 舞台は鹿児島の鴨池球場。高鍋の 初戦の相手は沖縄の中部農林だったが、その大切な試合を前にして高鍋の宿舎「鴨池旅館」では大変なことが起きていた。選手たちの間で食中毒が発生していたのである。

 試合の前日に宿舎を訪れたところ、主将の甲斐(昭35卒)らがトイレに何度も飛び込むのを見て事態を知った新聞部の記者岩切(昭35卒)カメラマン猿股(同)は平原美夫監督(故人)にこう口止めされたという。「このことは絶対に漏らすな」。

 その厳しい「報道管制」が功を奏して、新聞テレビなどマスコミには一切知られずに試合はスタートした。しかし、エースの永友延(昭35卒)は試合が始まってもベンチに座るのがやっと、仕方なく投手に控えの2年生を起用。クリーンアップも若手中心に切り替えた。ところがいざフタを開けてみるとその若手が大活躍、10-1で大勝した。

 食中毒騒動をどうにか乗り越えて勝ち進んだ高鍋は、予想通り決勝へ。2度目の甲子園をかけた高鍋の相手は、名門の鹿児島商。スタンドは超満員、上空を宮崎のデパートが高鍋応援のためにチャーターしたヘリコプターが旋回していた。(敬称略)

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画伯監督の絵が宮崎県美術館に

いっぺこっぺさがしたっちゃが、ねしてかい、すったりなえたっちゃが。            

(あちらもこちらも探したけれど、なかったので、すっかり困ってしまった。)

 何故今頃になって、平原先生なのって、思われる人があるでしょうね。それは、日向市に住んでいる友人から、「宮崎の県美術館に古代エジプト展を見に行って来ました。併設されている展示場があって 平原先生の100号くらいの風景画が県内の画家の絵と共に展示してありました。先生のそういう絵は初めてみました。」というメールをもらったからです。先生の絵は、作品数が多くないのと、教え子たちで、大成している方が多いので、買い手が少なくないのです。私自身は写真以外では見たことがありません。画家としてより、野球に人生を託された時間の方が長いのですから。

スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校 甲子園初戦は11点差大敗

野球部 5

 1954年(昭29)、高鍋が東九州大会決勝戦で優勝候補の大分商を破り、甲子園初出場を果たしたことは前回紹介した。そして、この初出場はただ一つ「甲子園未出場県」としてある度に、他県から冷やかされていた宮崎県にとっても価値ある快挙であった。甲子園出場を目前にした決勝戦で極度に緊張した高鍋ナインをリラックスさせた選手がいたことも前回書いたが、プロ野球の大洋で活躍した黒木基康(昭30卒)が、その人だった。

 高鍋の4番でその名を知られた黒木は、日大に進んでも4番を打った。当時の日大は全盛期。黒木は日大の東都大学リーグ優勝に大きく貢献した後、大洋に入団、三原監督のもとで大活躍する。王貞治も顔負けの鮮やかな一本足打法だった。現在、黒木は大阪で会社を経営している。

 甲子園初出場の時のメンバーは次の通り。【遊】堀北(昭31卒、故人)【三】斎藤(同)【中】真鍋(昭30卒、元高鍋高コーチ)【一】黒木【捕】工藤(昭31卒)【左】宮越(昭30)【右】柄本(昭31卒)【二】立光(昭32卒、元高鍋高監督)【投】杉尾(昭30卒)

 高鍋の初出場ははもちろん、宮崎県勢として初めての甲子園出場だったので、地元の高鍋町を中心に県内は湧きに湧いた。それまでの宮崎県高校球界のレベルの低さは有名で、ラジオのクイズ番組で「まだ甲子園に出場していない県が一つだけある。さて、その県の名は」といった問題が出たほどだったから、その喜びようは尋常ではなかった。こうした周囲の異常とともいえる興奮ぶりに浮き足立ったのか、甲子園に乗り込んだ高鍋ナインも冷静さを失っていた。甲子園初出場の相手は同じ初出場の鶴見工(神奈川)だった。

 高鍋は初回2点、3回1点と幸先よいスタートを切ったが、終わってみれば5-16の大敗だった。「大観衆に皆が飲み込まれていた」と、真鍋は当時を振り返っている。(敬称略)

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高鍋高校 平原美夫 その4

スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校 49年 九州大会県予選で待望初V

野球部 3

 前回紹介したように、野球部の「開祖」といわれる野球大好きの美術教師、平原美夫(昭50没)が監督に就任してから高鍋野球部は本格的な歩みを見せ始めた。

 練習時間の半分はお粗末なネットを越えて竹薮に消えたボールを捜すという悪条件と戦いながらの猛練習で、着実に力をつけていた高鍋ナインが、その証明である優勝の二文字を手中にしたのは1949年(昭24)だった。

 同年春の九州大会予選で初優勝を飾ったのである。それまでの平原の苦労が尋常でなかったことは前回書いたが、夫人も例外ではなく、嫁入り道具を売り飛ばしたり、質屋に入れたりして選手のボールやバットを購入した。もちろん自費だ。

 自費といえば食べ盛りの選手たちを養うのも大変だった。彼らを自宅に泊めて合宿したこともあったし、下宿させたこともあったが、すべて平原家の負担だった。

 そうした平原家の情熱と愛情によて育まれたこの年の高鍋野球部は絶好調だった。夏の県大会で優勝した高鍋は大分、宮崎、鹿児島3県の代表校で甲子園出場校を決める東九州大会に出場を決めた。しかし、1回戦で鹿児島実業に1-5で敗れている。

 それでもあきらめず秋の九州大会に甲子園の夢をかけたナインだったが、高鍋野球部史上忘れることのできない事件が起きた。この年の秋も九州大会に出場した高鍋ナインの調子はベストだった。

 長崎商を4-2、八女(福岡)を3-1で破り、晴の決勝戦に進出した。このときのメンバーは次の通り。

【三】杉野(昭26卒)【中】宮越(同)【一】山本(同)【捕】用害(同)【右】渕(同)【遊】岩岡(昭27卒)【左】熊岡(昭26卒)【二】黒木(昭27卒)【投】野村(同)

 決勝戦の相手は強豪の熊本工、結局、この熊本工に1-5で敗れたものの準優勝は間違いない事実だった。これでだれの目にも高鍋の春のセンバツ大会出場は確実に映った。宮崎県勢初、高鍋高初の甲子園出場を前に県内は沸き立った。だが、そうした興奮の行く手に意外なハプニングが待ち受けたいたのである。(敬称略)

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高鍋高校 平原美夫 その3

スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校 「オニ」と呼ばれた平原の熱血指導

野球部 2

 1946年(昭21)、県北部大会に出場、リーグ戦で延岡中学、延岡商を破って県大会に臨んだ高鍋に、卒業後、指導者として大成する一人の選手がいた。

 当時のバッテリー、荷出(昭24卒)中崎(昭25卒) より先輩の児玉(昭22卒)がその人である。児玉はチームの中心としても活躍したが、卒業後は指導者で幾多の素材を育て上げた。

 児玉は宮崎大学に進み、卒業後、高鍋東中に赴任した。東中では野球部監督として球児の教育に情熱を注ぐが、その後、児玉が手塩にかけた選手が県の高校球界で大活躍をすることになる。

 後に明大からプロ野球大洋に入った岩岡(昭27卒)もその中の一人だった。神奈川大卒業後、河合楽器に入社、社会人野球でその名を知られた黒木(同卒)らがその教え子だった。

 児玉は中学の野球指導者として数多くの逸材を育てたが、その黒木の母校高鍋野球部                                                                           096a の基礎を築いたのは平原美夫(ひらばるよしお 故人)である。平原は宮崎県東臼杵郡東郷町の出身。宮崎師範(現宮崎大学教育学部)卒後、旧制延岡中を経て47年、高鍋中に美術教師として赴任し、そのまま野球部監督に就任した。

 荒廃した戦後の社会で夢と希望を失った青少年を救うには野球しかない、と考えた平原は野球部のレベルアップに情熱を注ぐ。

 大事にしていた自分のスーツや絵を売ってまでバットやグラブを購入するなど、平原は侵食を忘れて選手たちの指導にすべてのエネルギーをつぎ込んだ。

 その指導方法は「オニ」と選手たちに呼ばれるほど徹底していた。練習は文字通り情け容赦のない厳しい内容で、朝から晩まで野球付けの毎日だった。

 この猛練習が実を結んで、日一日と高鍋野球部は力をつけていく。そして、54年夏、高鍋は夢にまで見た甲子園初出場を実現させたのである。

 次回以降で詳しく説明するが、この高鍋の甲子園出場は宮崎県勢としても初めて、しかも全国唯一の“甲子園未出場県”の汚名を注ぐ快挙でもあった。

写真は「みやざき101人」にお借りしました。

 先生が退職されたあと、体育館で講座が開かれたことがあった。大きい体で印象的でした。威厳があって、直接の担任でなくても怖かったのを思い出します。先生は、若い時に断念された画家に戻っておられて、画家としての時間は取り戻せないようなことをお話にもなりました。画家としての才能も素晴らしく、日展にも当選されていたたようです。

 当時の野球部部室は軍隊が使ってい厩舎で、 壁には馬の糞がこびりついていたとも。先生のスーツは食事になったり、ボールになったりしたそうです。奥様も随分尽力されたとのこと。昨日の、プロ野球オールスターゲームを宮崎で開催できたこと先生の努力の積み重ねの上にあることを知って欲しいと思います。

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高鍋高校 平原美夫 その2

田舎を思い出しちゃ、書いちょっとじゃが、ぼーど忘れちょっと。

(故郷を思い出しては、書いているけれど、大半を忘れてしまった。)

始めに、日向弁で書こうと思いつつも、宮崎を離れて、30余年ぼーど(ほとんど)忘れてしまった。なんとか続けたい。始めたからにはほたっちょけんから。

スポーツ山脈(編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校 昭和5年に誕生し苦闘

野球部 1

 旧制高鍋中野球部は既に1930年(昭5)前後に誕生していた。当時宮崎県の中等野球は3ブロックに分かれて試合をしていた。

 県北部は延岡中と高鍋中、中央は宮崎中、県南部には都城中などがいた。高鍋はそれなりに活躍したようだが、詳しい成績は残っていない。

 その高鍋が県中等学校野球の表舞台に登場するのは終戦直後の46年だった。この年それまで中断していた全国中等学校野球大会が復活したのである。

 といえば威勢がいいが、選手たちのいでたちは、今のギャルが見たら「ウッソー!」と噴出しそうな代物だった。

 飽食の時代とは違って、すべてないものづくしの時代だった。上からいくとまず帽子。今のようなかっこいいものではなく、それまで帝国陸軍の兵隊さんがかぶっていた戦闘帽だった。

 そして、ストッキング。これまた兵隊さんが愛用していた軍隊用の巻き脚半だった。履いていた靴がこれまた傑作だった。雨用に履く長靴か土木作業用の地下足袋だったのである。

 まさに「清貧」の高鍋ナイン。戦争が終わったばかりなので当然と言えば当然だが、彼らを取り巻く環境もひどかった。

 例えばバックネット。バックネットは板切れのつぎはぎ。高さ2メートル、幅5メートルのお粗末なもので、打球がそれを突き抜けたり飛び越えたりするため、割れた校舎の屋根がわらは年間200枚にも達した。

 食事事情も悲惨に近かった。合宿では猛練習で選手たちに同情した全校生徒たちから友情の米、麦が寄せられたが、食い盛りの選手たちが満足できるわけはない。ジャイモを半分入れた混ぜご飯の中からは選手は必死で米粒を探したという。

 46年、待望の県北部大会に出場した高鍋ナインは延岡中、延岡商とのリーグ戦に連勝し県大会に進んだ。エース荷出(昭24卒)、捕手中崎(昭25卒)のバッテリーだった。荷出は卒業後宮崎鉄道(旧国鉄)でも投手で脚光を浴び、退職後、母校のコーチを務めたこともある。中崎は歯科医院を開業する傍ら、母校野球部後援会会長として後輩の面倒を見ている。(敬称略)

 平原先生は次回から登場します。   先生は、美術部の先生なんですが、部室で見かけることはほとんどなくて、校庭で真っ黒に日焼けされていた。書きたいのも、野球部の監督としての実績である。美術部も長い伝統と実績は素晴らしいが、宮崎県民の意識を高めてくださった、野球部監督として書き進めます。

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高鍋高校 平原美夫 その1

テニスに行ったっちゃが、なま温きし、のさんかった。

(テニスに行ったが、暑かったので、しんどかった。)

 ネットに高校の先生の名前を探したのに・・・。 

 高鍋高校の美術の担任だった、平原美夫先生のことが知りたくて、ネット検索をしたんですが、「みやざき101人」くらいにしか名前がないので、すごく残念です。私たちは先生の最後の教え子なのです。そこで、考えました。幸い手元にどこかの新聞に連載されたであろう記事があるので忠実にコピーしたいと。表紙がないのでいつの物かもわかりません。タイトル文字が福岡工大付に通っていた、93年柔道世界選手権48キロ級金メダリスト、田村亮子になっています。つまり、この小冊子は93年頃のものかもしれません。

    スポーツ山脈(編集委員 蒲牟田 勇) 

     高鍋高校 前身は藩校『明倫館』

プロローグ 

 ナンキンハゼの下をかいくぐっていくと、3階建ての近代的校舎群が見えた。宮崎県児湯郡の高鍋町にある、県立高鍋高校である。創立は1923年(大正12)4月。数ある宮崎の県立高校の中でも屈指の進学校だ。

 その前身は師弟教育に熱心だった高鍋藩の藩校「明倫館」(1778年創立)。そうした明倫館の流れをくむ学校にふさわしく幾多の人材を輩出してきた。

 卒業生は2万3000人。その中には東京歯科大学長の関根(旧制18回 昭20卒)もいる。関根は高鍋中から七高に進み、日本歯科学会会長も努めている。福岡大医学部長の三好萬(新制3回昭26卒)もOBの一人。官界では厚生省事務次官・黒木(昭27卒)。東大卒後、厚生省に入り大臣秘書官、保険局長などを歴任した。

 武弘の実兄で、宮崎のナポレオンといわれる焼酎(しょうちゅう)「百年の孤独」の製造元の社長・黒木は36年(昭11)卒業組。

 高鍋は昔から進学にもスポーツにも強い、いわゆる文武両道の校風を誇ってきた。スポ096b ーツの現役選手ではプロ野球の福岡ダイエーホークスの池田親興(昭53卒)がいる。高鍋野球部は宮崎県勢では、初めて甲子園の土を踏んでいる、当時県民の熱狂的な人気を集めたものだ。

 ユニークなトところでは、タレントの今井(昭57卒)がいる。モデル出身だけあって、すらりとしたスタイルが売り物。その今井は高校時代は陸上部の選手だった。百メートルを12秒で走りインタハイにも出場、かなり期待されていたという。

 ほかにもチター奏者の河野保人(昭25卒)がいる。チターは名画「第三の男」のテーマソングの楽器として一躍有名になった。河野はわが国のチター奏者NO.1で、世界的にもその名が知られている。

 今高校の世界ではラサールのような大学進学専門と、スポーツ専門の私立高校といった具合に分業化して久しい。そんな流れの中で「文武両道」のスタンスを守り続けてきた高鍋の存在は貴重だ。(敬称略)

 書いているうちにとっても古い物だと実感する。けど、資料がほかにない。平原(ひらばる)先生はまだまだ登場されない。みやざきの101人には酒豪の記事がある。

 文展初入選の祝賀会では、椀の蓋で60杯の酒を飲んで皆を驚かせたという逸話がある。彼は亡くなる前日、5名の知友と共に酒席を持ち12時間飲み続けた。このようなことは初めてのことではなかった。凄い、牧水にもまさるのではないか

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