故郷

ふるさと便り 西都原古墳群

めろんさんからの写真は大きなサイズでたくさん送られてきました。感謝です。帰郷しても用事が多かったりで中々観光はできませんから嬉しい便りです。

気になっていた、邪馬台国だったらいいなぁと思い続けている西都原古墳群。写真は有名な鬼の窟です。

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鬼の窟古墳(206号墳)(おにのいわやこふん)

西都原古墳群内で唯一、埋葬施設に横穴式石室を採用している古墳である。鬼が一夜で造りあげたとする伝説が残ることが名の由来となっている。石室入り口付近に生えていた楠により石室崩壊の危機にあったため、解体修復作業が行われ、その際同時に発掘調査が実施された。石室内の水を排出するための暗渠の存在や土塁が完全に古墳を一周していたこと、追葬が行われていたことなどが明らかとなった。古墳の周囲に土塁を巡らしているのは中華人民共和国・朝鮮半島ではよく見られるが、国内では石舞台古墳が類似するのみで、関係が注目される。  『ウィキペディア(Wikipedia)』より

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これは171号墳 171号墳は女狭穂塚の陪塚と言われ西都原古墳群で唯一の方墳です。一辺25m高さ4.5mで二段築成されています。墳頂平坦部は円筒埴輪列が取り囲みその内部に家形埴輪や盾形埴輪が列をなして立てられていました。しかし内部に人を葬った跡は見られません。第一次調査大正元年12月から翌年1月・平成10年から平成12年祭発掘調査整備されました。墳丘の表面は川原石(葺石)で覆われています。

他にも男狭穂塚(おさほづか)・女狭穂塚(めさほづか)があり、男狭穂塚は日本最大の帆立貝式古墳です。 ニニギノミコトの御陵と伝えられています。 男狭穂塚は5世紀初頭に建造された西都原古墳群中最大の古墳です。

女狭穂塚は九州では珍しい畿内式前方後円墳、九州最大の前方後円墳です。 コノハナサクヤヒメの御陵と伝えられています。

くわしくはこちらからどうぞ!

この西都原古墳群は、春は菜の花が咲き乱れ、今から季節は一面のコスモス畑が広がる。

それにつけても青い空によく似合う緑の古墳群!

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故郷の風景

昨日 ど真ん中祭りの鳴海会場から帰って(帰りは一時間に一本しかないバスで・・・それも10分以上遅れてた)、あーぁ 暑かったなぁと思っている頃にメールが届いた。

めろんさんから どーこだ! という写メールでした。

それはこの写真。わかりますか?

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高校の同窓の人ならわかるかもですね。

石河内を見下ろす展望台から見た、武者小路実篤が妻房子と作った理想郷、日向新しき村です。

日向新しき村のことを武者小路実篤は『土地』に書いています。

後ろの山が霞んでいい感じです。

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武者小路に新しき村を案内したのが、津江市作氏です。当時の村長だったかな。101歳?まで生きた津江市作氏は村葬になりました。当時は小・中学校の間に講堂がありそこでの葬儀だったと思います。学校に行く時に横を通った記憶がありますから。

津江市作氏の思い出を彫刻家の田中等氏がこちらに書いています。こんなこともあったかもしれませんね。土葬だった昔は、新しく墓穴を掘ったら、遺骨が出たという話はよくありました。

取りとめが無くなってきましたが、土葬だったころは、埋葬した後に棺桶が腐って地面が落ち込むのですぐに墓石を建てることはなく、木でつくった祠のようなものを作って置いてあった。中には金銀の色紙などきれいだった。

今では火葬になったので、墓石も一家で一個になって骨を納めるようになったようだ。先年亡くなった父親は、墓石もなくお寺に収められている。今は直接お寺で供養するようになって来ているらしく、父親と同じ時期に亡くなった、従兄もお寺で眠っている。

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めろんさんには、西都原古墳群の写真をお願いしてあるんですが、趣味でないのか中々届きません。(笑)

めろんさん、ふるさと情報ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。

PS 日向人さんはまだ行ったことがないそうですが、現国のsasayama先生がいっつも言ってたね。 あー たまらんあなぁ と!その石碑をメロンさんが送ってくれました。

また こっぱずかしいと言うかな、メロンさん!

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難しき時代新しき村

今日は、端末 Robot/Tool は来なかったようだ。訪問くださったたくさんの人、有難うございます。

今朝の朝日新聞に、武者小路実篤が大正時代につくった理想郷、新しき村が特集されていた。

今も続いているんです。「新しき村」の名に聞き覚えのある人は、驚かれるかもしれません。それは、「仲良き事は美しき哉」の言葉で有名な武者小路実篤が、大正時代に始めた農村共同体。仕事はみんなで分担。余暇はそれぞれ趣味を楽しむ理想郷をめざして90年。高齢化は進むものの、村には静かな時間が流れ続けているんです。

実篤は、戦争を避けて最初に宮崎県木城町に日向新しき村をつくった理想郷。この時の苦難は『土地』に詳しく書いてある。時の村長、津江一作との関係、いきさつなども合わせて、興味深いことが書いてある。

のちに埼玉の毛呂山町につくった新しき村に行ってしまったが、どちらの新しき村も今も続いている。

よだきぼママが石河内(いしがわち)に新しき村を訪ねたのは、子供が小さい頃だった。まだ 実篤の先の夫人房子さんが、まだ存命中だったが、心の字に掘った池に水はなかった。青年団が訪ねても会ってもらえる人そうでない人があったらしい。この頃はすでに体調が悪かったのか・・・。

木城の中心からは、いくつもの山を越えて行かなければならない。最後の山を降りる坂の途中に

山と山とが賛嘆しあうように
星と星とが賛嘆しあうように
人間と人間とが賛嘆しあいたい

の石碑が建っている。高校の現国の担任は、よく通る声で歌っては、たまらんなぁ・・といつも感激していた。この通りに実現出来たら本当にに素晴らしい。理想郷そのものだったろう。

今も住み続けているのは、松田省吾さんとヤイ子さん。高齢になった房子さんと再婚した杉山さんの面倒をみるために、76年に日向に移り住んだ。

町の高城に住む吉田医院の元院長は、二人の最後を看取った。吉田先生が書かれた本や、阿万鯱人著『一人でもやっぱり村である』に詳しいが、今、手元にないのが悔やまれる。

新しき村の公式HPはこちらからImg_6075

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木城(宮崎県)の焼酎

  朝から焼酎という話題もどうかと思わなくもないが、よだきぼブログのキーワードを検索していて 木城 ⇒ 木城町の酒屋にて にたどり着いた。

アルコールは飲まないが、焼酎の研究をしている人なのか面白いので リンクしてみた。こちらから。

この酒屋はよく知っている。先代にあたる?おばあちゃんに、雨が降り出すと、バスで帰りたくて10円、(子供だったから5円だったかも)貸してと頼んだ。貸してくれるんだが、気難しおばあちゃんだった記憶もある。3キロも雨の中を歩くより、やっぱ バスのほうがいいよね。

それは置いといて、好まれる焼酎の変化に驚いた。子供のころは、寄り合いでも葬式でも何でも、高鍋の黒木本店の橘に決まっていた。時には隣の川南の 都の泉 だったかな。

黒木本店のたちばなが飲まれなくなっているというの驚いたし、都の泉は今年3月に廃業というのにも時代の変化を感じた。

そして Index から 焼酎topへ。

絶版焼酎を集めたり。焼酎を飲まなくても楽しめそうだ。

「南の風」 掲示板 2代目  これはこれは うちの亭主も喜びそうな掲示板だな。ははは!(●^o^●)

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高鍋のゆるキャラ 全国デビュー???

 今朝、朝日テレビ系列で、東国原知事と一緒に、ふるさとのゆるキャラ「たか鍋大使くん」がテレビで紹介された。変と言えば言えば変だけど、「たか鍋大使くん」は、高鍋町持田にある高鍋大師に由来するらしい。Sa3a0102_3 

高鍋の鍋料理を宣伝するために、作られたとか。宮崎日日新聞の記事はこちらから。写真がいまいちなので宮日webから借りようっと・・。200811261227678020

たくさんの顔は気配り、目配りをということらしい。

 持田古墳と高鍋大師・・・詳しくはこちら 高鍋町在住の彫刻家田中等氏のブログから。

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わ~い ふるさとの歴史は凄~い

 夕方ポストを見ると分厚い封書が入っていました。なんだろう・・・長浜城からは今月の案内は届いているし・・・古代遊学会にしては厚みが違うし、と思ってみると、ふるさとの社会教育家のひむか男さんからです。

 中身は待っていた「高城の合戦を語り合う会」の資料と他にも興味深い資料です。このときの様子は日日新日記のここです。感謝です。

  落ちなかった高城ということは知っていても最初に嬉しかったブログは リンクしてある お寺さんぽ Ver 3 破竹の大友勢・抵抗する山田有信 「耳川合戦」2 とそれに続く 炸裂!釣り野伏! 「耳川合戦」3 だったのです。自分の故郷のこと知らないなあと思いながら、よくも調べて書いてくださったと思ったものでした。

 このブログに書いた戦国時代の高城の合戦1  2  3 4   の資料を一部をふるさとからもらいました。 今回の資料にもあるかもしれません。興味が深まります。

 天正13(1585)年に、作られた十一面観音像も残っていて、町の文化財になっているとか・・・じっくり読みたいです。

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城山公園にペンキでいたずら!

 こころない人はどこにでもいると分かっていても腹立たしいことはある。今日のMIYANITI e PRESS 地域の話題 (宮崎日日新聞web版)から

2007年6月17日

 木城町のシンボルである城山公園のメロディー時計台が、ペンキでいたずら書きされるなどの被害に遭っていたことが16日までに分かった。公園を管理している町企画課職員は「町の顔でもある施設にひどいことをしたものだ。本当に残念」と落胆している。

200706170202_1_1 町企画課によると、14午前10時ごろ、公園管理に訪れた際に発見。時計台の床や階段にベージュや黄色の水性ペンキで「海がみたい」「鬼」など意味不明の落書きがされていたほか、明かり取り用窓のアクリルガラスも数枚割られていた。駐車場とトイレも同様の手口でいたずらされていた。今後、塗装業者などに依頼し、修復作業に当たるという。

【写真】ペンキで落書きされた城山公園のメロディー時計台

 名古屋市に住んで30年以上になるが、自分を育んでくれたふるさとはいつまでたっても気にかかる。 城山は歴史が刻まれた町の顔でもあり、桜祭り・遠足その他思い出深い場所でもある。そんな大事なところにひどいことをするもんだ。

愛知県在住のお城が大好きなちえぞーさんのブログはこちらから。宮崎の城跡が紹介してあります。

今日の花はルリマツリです。白花はハンギングになっています。蕾は出てきましたが咲くのはもう少しかかりそうです。そのうちまた。それとニワハナビ、ほんとの線香花火みたいに可愛い花です。植えてあるのではなくて雑草ですが、愛らしい花に誰も抜けません。オシロイバナも咲き始めました。Rurimaturi_1Niwahanabi Osiroibana 

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高鍋の町並み

Takanabetourou  高鍋の町に設置されているらしい、たくさんの灯篭。9月に帰郷したおりに高鍋駅にあるのを見たが不気味さを感じた。歴史好きな私には、人の頭・・・兵隊の頭が、モチーフなんかなと思えるほどのものであった。

 今回、彫刻家田中さんの日記で、実際に町に並んでいるたくさんの灯篭を見た。2000個・3000個もあるそうだが、どうですか。不気味だと思いませんか。 Tourou3_1 Tourou4_1 

 12月19日の日記を見ると被害も受けて見えるようだ。田中さんは、灯篭の写真を初めて掲載された。(写真は田中さんの日記からお借りしました)

醜悪な灯篭を撤去し、元の高鍋の景観を取り戻したいと思っておられるようだ。歴史が息づく町としてみんながさんぽを楽しめる町並みを取り戻してほしいと・・・。

 遠い名古屋からエールを送る!!!

 夜になって・・・田中さんの日記を見る。一度書いたけれど、書き直した言葉、“生首が並んでいるようだ”と田中さんは書かれていた。まさにそうなんです。石井十次の名前の前に、生首が並んでいるという印象をもったのが正直な感想でした。リアルすぎて書けなかった・・・。

 灯篭の火は、今まさに文教の町・高鍋では”種茂公の教え”の火が消えかからんとしている哀切を漂わせているだけである。と田中さんの日記にあったが、種茂公が何をされたか知らない人が多いんだろうとも思う。

 高鍋藩を大きく発展させ、「中興の名君」と言われた秋月種茂。彼が藩政改革の重要な事業として、まず取り組んだのが、「優秀な人材を育成し、登用する」ということであった。 上杉鷹山の兄とまず紹介されるが・・・。 もっと凄いことは、世界でも、多分初めて児童手当を農民に支給し始めたことだと。当時の農民は生かさず殺さずという生活の中で困窮していた。生まれた子供を間引くということが日常茶飯に行われていたんです。日本国中で・・・。浮世絵にも、生まれた子供の顔を母親が手で覆って殺すものがある。それが当たり前の時代に児童手当を支給したんです。人材登用するためにも、子供を育てようとした。命を大事にした。

 種茂公はじめ、郷土の歴史を知ってほしい。郷土の歴史に興味を持って日が浅いのに偉そうなことを書いてしまったが・・・。

参考図書 宮崎の出版社鉱脈社刊『志は高く』高鍋の魂の系譜 和田雅美著。

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高鍋高校 駅伝部 黒岩正春

 手元にどこかの新聞に連載されたであろう記事があるのでコピーしたいと。個人情報は卒業年・名前は苗字だけ・職業は略します。表紙がないのでいつの物かもわかりません。タイトル文字が福岡工大付に通っていた、93年柔道世界選手権48キロ級金メダリスト、田村亮子になっています。つまり、この小冊子は93年頃のものかもしれません。野球部はクリックしてね。

 高鍋高校ラグビー部について・・・。それには、まず長いこと監督だった黒岩先生のことから。

 スポーツ山脈 (編集委員 蒲牟田 勇)

高鍋高校 黒岩は骨折隠し全国大会力走

 駅伝部 

 1950年(昭25)12月末、大阪の師走は冷たかった。まだ焼け跡が残る大阪・ミナミの繁華街、道頓堀を若い男の集団が歩いていた。全員が戦闘帽をかぶり、軍隊用のマントを羽織り、これまた軍隊用のゲートルを巻いていた。

 戦後の混乱期が残る当時では別に珍しい服装ではなかったが、歳末特別警戒中の大阪府警の警官には浮浪者集団に見えたのだろう。呼び止められて職務質問された。

 一瞬両者の間に険悪な空気が流れた。その時である。いかにも集団の中のリーダー格に見える一人の屈強な少年がはっきりした口調でこう言った。「私たちは宮崎県から来た高校生です。決して悪いものではありません」この少年が高鍋高校駅伝部の主将黒岩正春(昭26卒元高鍋ラグビー部監督)であった。

 黒岩たちは大阪で行われた第一回全国高校駅伝大会に出場するため高鍋からやって来て、大会の前日に市内見物をしていたところ職務質問されたわけだ。

 しかし、この「浮浪者集団」はその翌日、郷土宮崎の人たちをあっと言わせる快挙をやってのけた。

 大阪・堂島の毎日新聞社前をスタートして堺市で折り返す6区間で行われた第一回全国高校駅伝で3位に入賞したのだ。

 高鍋の花の1区はその黒岩。レース前、疲労から左足を骨折(左中足骨亀裂骨折)していたのを隠して力走した。結果は17位だったが、2区の上野春雄(昭26卒)が健闘して、一気に7人をゴボウ抜きして3区の1年生佐々木幸雄(昭28卒)にバトンタッチ。

 佐々木も力走また力走、同じように7人を抜いて3位に食い込んだ。そしてこれを4区の森本広(昭26卒)5区の小田(同)アンカーの大山(同卒)とつなぎ、見事に3位入賞を果たした。

 タイムは1時間50分17秒。優勝は広島の瀬羅だった。この模様はラジオを通じて全国に実況放送されたが、もちろん宮崎でも県民がラジオの前で大歓声を上げていた。」高鍋はこの年、野球部が九州大会準優勝二重の喜びとなった。この後、黒岩はラグビー部の監督となり黄金時代を築き上げる。4505

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秋月種樹は外遊に・・・。

岩倉具視と一緒なのかなって思ったんですが、日程も行程も違っています。それでは、秋月種樹は誰と一緒に行ったのかな。

岩倉具視はまず、アメリカに行っていました。

明治四年 1871

 10月 8日 岩倉使節団の派遣決定
 11月12日 岩倉使節団 横浜を「アメリカ号」で出港
 12月 6日 岩倉使節団 サンフランシスコ上陸
 12月14日 岩倉使節団 大歓迎会
 12月22日 岩倉使節団 汽車でサンフランシスコを出発

 12月25日 岩倉使節団 ソルトレークに入る

 秋月種樹は資料が少ないので解らない。種樹の消息を語るものとして三好退蔵(高鍋出身後の大審院長)の書簡がある。退蔵は種樹と一緒に渡欧したものである。

 英国ロンドンより拝啓。(中略)四位候(種樹のこと)も左院連中に従って佛に御留り相成候処、大村公(種繁夫人実家)諸国遊歴の挙あり、通弁等も附属し好都合につき、同行にて各国御周遊、魯州(プロシア)を極めてのち、英国に出で米を経て御帰国の積もり。

 後概略。雇った通訳は、読書は出来るけれど、通訳は少しも出来ない、舟のなかより全然役に立たない、厄介の極みだと。種樹公も後悔されている、ついに放還を決心したが、格別の厚意で英国の小学校に修行しているので、種樹は一人で御遊歴御壮のことなり。と。 この手紙は、4月26日付け、城勇雄、秋月種節(水筑小一郎)、綾部豹蔵、手塚吉康(賢太郎)堤長發宛である。

 種樹は七月中旬にイギリスに渡り、そこから夫人宛ての便りを出している。

 4月21日出しの書状昨日相届き拝見。一々承知いたし候。その他の事便り下され安心いたし候。当月15日イギリスへ来たり、来月15,6日頃よりアメリカへ参り候間、十月末十一月初には必ず横浜へ帰船すべく候間、御安心御待ち成さるべき候。此後は御文は出さるまじく候。殊に寄れば此便と同時に日本へ届き申すべきかと存知候。

         七月二十三日    秋月

お多賀との

 帰るのは遅れて十二月になった。巡歴した国々の文化制度、風物は彼の彗眼に様々の印象を与えた。特に、英国の立憲政治と貴族の教養は、強く反省するものがあって、次に始める、華族会館の創立に繋がっていく。

約一年に渡る、欧米視察であった。

参考書籍 日向文庫 秋月種茂と秋月種樹 武藤麒一 安田尚義 共著

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